じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
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2009年版・岡山大学構内でお花見(65)パイナップル百合 パイナップル百合は、ほったらかしにしておいてもちゃんと花をつけ、しかも花期が長いので公共花壇向きである。ここにある花は、7月20日の楽天版でもご紹介している。記録では1999年頃に植え付けた球根。 |
【思ったこと】 _90803(月)[数学]確率と統計を考える(2)確率とは「起こる率」ではなく「当たる率」のことだ 昨日の日記の続き。 昨日の(4)の問題を検討する前に、「確率とは何か」ということを復習しておきたいと思う。この日記を書くにあたって、確率・統計の入門書を何冊か閲覧してみたが、冒頭から「確率」をきっちりと定義している本は意外に少ないことに気づいた。たいがいは、サイコロを投げた時の例を引用して、「この場合の、○○の値を確率という」というように説明しているようだが、これは例示であって定義とは言い難い。 次に、ネットで「確率とは」をざっと検索したところ、はてなキーワードに 期待する或る事象の起こる場合の数の、起こり得る全ての事象の場合の数に対する比。 という定義が記されてていることが分かった。この定義は、「起こりうる場合の数」というところには「同様に確からしい」(=等可能性の保証)という前提が付け加わればおおむね妥当であると思う。しかし、上記の「定義」においても、確率(←但し、離散的に生じる現象の確率)の計算の仕方が紹介されているだけであって、確率の本質を説明しているわけではない。数学的な理論を発展させる場合には、この種の操作的定義で十分なのかもしれないが、これでは日常現象に正しく適用することができない。 私自身が考える「確率」は、以下のようなものである。 ある予測者が、その時点で獲得している情報をもとに「ある現象が生じる」と予測した場合の当たりやすさ。ここでいう「当たりやすさ」というのは、仮に同じ条件のもとで同じ予測を100回行ったとして、何パーセント当たるのかというような意味である。 ここで重要なことは「確率」は「起こりやすさ」ではなく、「当たりやすさ」として定義しなければならないという点である。「起こりやすさ」というのは、人間が居ても居なくても、客観的な生起頻度として検証可能な大きさである。大きさの数値自体は分母をどうするかによって変わってくるが、「こちらのほうが大きい」とか、「大きさが減少した」というような順序尺度的な比較は一意的な解が存在するという性質をもっている。いっぽう「当たりやすさ」のほうは、予測者に与えられた情報が変化すればその都度変わる。同じ対象を目の前にしても、予測者それぞれが保有する情報が異なれば「当たりやすさ」は変わってくる。 例えば、箱の中に当たり籤と外れ籤が1本ずつ入っていて、AさんとBさんがこの順に籤をひいたとしよう。籤を始める前の時点では、Bさんが当選する確率は1/2であり、この予測の当たりやすさは、AさんでもBさんでも変わらない。しかしAさんが籤をひいて当選したという結果を知った場合にはその大きさが変わってくる。Aさんのほうは「自分が当たり籤をひいた」という情報を新たに獲得したので、「Bさんは100%の確率で外れる」というように予測を修正する。いっぽう、Bさんは、その結果を知っていれば「自分はゼッタイに当たらない」というように予測を修正するが、Aさんの結果を知らなければ「自分は1/2の確率で当選する」という初期の予測のままとなる。Bさんの初期の予測は、籤を始める前の時点で検証されるべきであり、100回予測すれば50回程度は当たることになり何ら不思議はない。 もちろん、世の中には、「起こりやすさ」=「当たりやすさ」となる現象もたくさんあるとは思う。例えば、イカサマでないサイコロを1回投げた時に1の目が出る起こりやすさと当たりやすさはいずれも1/6であって同一である。しかし、いっけん「起こりやすさ」であると見られるものも、じつは「当たりやすさ」に過ぎないという場合が殆どであるように思える。 例えば、台風の進路予想は確率的に判断されるが、予想される進路や位置は、最新の観測情報によって刻々と変わってくる。 地震の「起こりやすさ」と思われていることも、じつは「当たりやすさ」に過ぎない。例えば、東海地方と岡山県では、東海地方のほうが「大地震が起こりやすい」と一般に考えられている。しかし、岡山県の地下に新たな活断層が発見され今後1年以内に地震が起こる可能性がきわめて高いと判断された場合には、起こりやすさの順位は逆転してしまう。確率的な予測対象は、本質的な不確定変動現象ではなく、決定論的な現象である場合が多い。それが確率的に扱われるのは、
次回に続く。 |