じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 同じ日に日の出と日の入りを眺める

 8月23日は、弱い前線の南下で短時間雨がぱらついたものの、全体としてよく晴れ、同じ日に、日の出と日の入りを眺めることができた。写真上は、岡大構内にて05時46分頃撮影。写真下は、旭川土手にて、18時32分頃撮影。

 大陸育ちの高気圧に覆われるようになったため、最低気温は8月23日が22.4度、24日は21度台まで下がった。少し前までは、日の出と同時にクマゼミが大合唱を始めていたが、今や、日の出の時期に鳴いているのは秋の虫のみ。



8月23日(日)

【思ったこと】
_90823(日)[一般]昭和35年の意味(4)60年安保(1)

 昨日の日記の続き。

 番組サイトにもあるように、昭和35年は、すでに取り上げた話題のほか、三井三池争議ローマオリンピックの年としても知られているが、なんと言っても最大の話題は、60年安保をめぐる衝突であったと思う。番組では当時、小学生のあいだでも「デモごっこ」が流行ったという発言があったが、そういえば小学校2年の私も、よく分からないままに、「安保ハンタイ」と「安保サンセイ」に分かれて押しくらまんじゅうのような遊びに加わった記憶がある。なお、日米安保をめぐる衝突としては10年後の「70年安保」があるが、運動の形態は著しく異なっていた。ちなみに、反対派勢力は、60年安保の時は「安保ハンタイ」と叫んでいたが、70年安保の時は「安保フンサイ」であった。「反対」が「粉砕」に置き換えられた背景には何か仕掛け人が居たはずであるが、どこからどういう形で「粉砕」という言葉が広まっていったのかは私にはよく分からない。

 さて、60年安保の時の総理大臣は、言うまでもなく岸信介氏であった。ウィキペディアの関連項目を要約すると、岸氏は、首相に就任する前、
  • 1941年10月に発足した東條内閣に商工大臣として入閣。但し、東條とは、その後溝が深まる。
  • 8月15日に太平洋戦争が終結した後、A級戦犯容疑者として逮捕
  • 巣鴨拘置所に収監されたが、冷戦の激化に伴いアメリカの対日政策が大きく転換。日本を「共産主義に対する防波堤」と位置づけ、旧体制側の人物を復権させたため、戦犯不起訴となる。東條ら7名の処刑の翌日の1948年(昭和23年)12月24日に釈放、公職追放。
  • 1952年(昭和27年)公職追放解除。
  • 1952年4月に「自主憲法制定」、「自主軍備確立」、「自主外交展開」をスローガンに掲げ、日本再建連盟を設立、会長に就任。1953年、日本再建連盟の選挙大敗により日本社会党に入党しようと三輪寿壮に働きかけるも党内の反対が激しく入党はできず、自由党に入党。公認候補として衆議院選挙に当選したが、1954年(昭和29年)に吉田茂首相の「軽武装、対米協調」路線に反発したため自由党を除名された。11月に鳩山一郎と共に日本民主党を結成し幹事長に就任。
という遍歴を重ねられた。興味深いのは、保守合同前の「日本民主党」の幹事長が岸氏であり、総裁が、鳩山由紀夫や鳩山邦夫氏の祖父にあたる鳩山一郎氏であったということ。もっとも、現在の民主党と、保守合同前の「日本民主党」は直接関係はなく、「自由民主党」という名称に含まれる「民主」2文字の由来になっているというのが正確な理解かと思う。

 岸氏は、日米安保の評価は50年後に定まるというような言葉を残したという。いよいよ2010年、その50年後がやってくる。日本史としての位置づけのみならず、世界史の1項目として、評価をされるべき時がやってきた言えよう。

 不定期ながら次回に続く。