じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
§§ |
立命のキャンパス内で見かけたシマトネリコ。白く垂れ下がっているのは花ではなくて果実。温暖な地域で生育する植物ということだが、京都のこの地でも育つというのはちょっと不思議。なお、この近くには、同じく温暖な地に生える「泰山竹」も植えられていた。こちらは中川小十郎ゆかりの植物であるというプレートが設置されていた。 |
【思ったこと】 _90828(金)日本心理学会第73回大会(3)心理学における性格概念の用法(2)性格の3つの視点 昨日に続いて、渡邊芳之氏の ●心理学における性格概念の用法 という小講演についてのメモと感想を述べさせていただく。 講演の中ほどでは、性格概念の一貫性のあり方や意味が、一人称的視点、二人称的視点、三人称的視点によって異なっており、
ところでこの「人称」に関してはかつて『「モード心理学」論』(サトウタツヤ・渡邊芳之著、紀伊国屋書店、2005、227〜234頁)の中でも取り上げられており、
今回は上記に加えて、
ここからは少々脱線して、私自身の考えを述べさせていただくが、まず、まず、上記の性格概念のみならず、日常表現として使われる概念は人称的視点によって用法が異なるということは確かだと思う。 一人称的視点においては、自分自身の「性格」についての思い込みがしばしば問題となる。これはポジティブに作用する場合もあるし(→例えば「自分は辛抱強い性格である」と思い込むことにより、自身の行動を長続きさせようと頑張る)、ネガティブに作用する場合もある(→例えば「自分は根性無しで、気が弱く、すぐにくじけるダメな性格だ」と思い込むことで、努力の積み重ねを放棄する)。いずれにせよ、一人称的性格というのは、自分自身に対する主観的評価にすぎない。血液型性格判断であれ、占い一般であれそうだと思うが、自分自身について何らかの特徴づけがなされていても100%それを信じることはない。いろいろ挙げられている諸特徴のうち、自分が好むか、主観的にそうだと思い込んでいる項目だけを拾い出して「あっ、当たっている」と喜ぶだけである。 一人称視点においては、一貫性を過大に評価しやすい。これは渡邊氏のご指摘にもあるように自己同一性とも深く関わっている。「自分とは何か」というのは誰でも一度はいだく疑問であると思うが、これはおそらく
性格判断のようなものに関心を示す人が多いのは、自分長所や短所や適性を知りたいという願望があるからではなく、むしろ、自分を特徴づけることで、自己が確かに存在しているという確信が高まるためであるかもしれない。 それから、これは渡邊氏の著作では触れられていなかったと思うが、一人称は、単数形のほかに「we(わたしたち)」という複数形もある。これはおそらく、ある集団の内部での「役割としての性格」であり別に議論する必要がある。このことに限られないが、人称的視点という発想は、「対話的自己」や「ポジション」と大きく関係しているように思う。ちなみに、今回の大会には、ハーマンス夫妻も招待されており、同じ日の午後に、お二人を交えたシンポジウムが開催され私も拝聴した。 次に二人称的視点だが、これも相互の思い込み、期待、誤解などに多分に影響される。よく芸能番組で「性格の不一致が原因で離婚」など伝えられるケースがあるが、たいがいは「自分は悪く無い」、「相手も傷つけたくない」というような場合の方便として「性格の不一致」を使っているだけであり、本当の原因は別のところにあるはずだ。ま、いずれにせよ、二人称的な「性格理解」は、「正確な性格理解」である必要は全くない。ある精神科医が言っておられたが(←長谷川の記憶のため、かなり変容しているが)、夫婦関係などというのは、お互いの本心を晒せばそれでよいというものではなくて、同じ舞台の上で夫婦という役をいかに上手に演じるのかということによって価値が決まってくるものである。 二人称関係に関してはもう1つ、「あなたがた」という視点もあると思う。これは次に述べる三人称的視点とは異なり、自分が、特定集団に向かい合う場合の関係である。自分が所属する集団の内部から集団全体をとらえる場合は「私たち」という一人称であるが、自分がその集団の外にあって、その集団と何らかの関わりを持つ場合は「あなたがた」となる。通り魔殺人の犯人が「世間は」と語る場合の「世間」はおそらく「あなたがた」という二人称的とらえ方をしているにちがいない。「あなたがた」への憎しみを募らせることで「殺す相手は誰でもよかった」という発想が出てきてしまうのであろう。 最後の三人称的視点は、今回の渡邊氏の議論の文脈から言えば「他人の性格を、状況から独立に客観的に見る」として定義されることになるだろうが、これ以外にも、所属する複数の集団の内部における役割、あるいは、国民性、県民性といったステレオタイプに関する議論が出てくると思う。もっとも、一口に「彼、彼女、彼ら」といっても、それらの存在を自分との関わりで受け止める時の視点は、「あなた、あなたがた」に転じてしまうのである。本来の三人称的視点というのは、中立的な視点、極限すれば、「自分にとってはどうでもいい存在」を論じる場合に限られるべきかもしれない。 次回に続く。 |