じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
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満月(←正確には満月の翌日)に照らされる一般教育棟構内。冬型の気圧配置もおさまり、11月4日早朝は澄み切った空に月齢16.7の月が輝いていた。今回の満月は11月3日の午前4時14分なので、まだまだ真ん丸の形をしていた。写真左は、一般教育棟中庭にある池と裸婦像。写真右は、大学会館南側にある石庭。昼間に撮影した写真が2007年3月6日の日記にあり。 |
【思ったこと】 _91103(火)[心理]ガーゲン先生ご夫妻講演会(6)ケネス・ガーゲン先生の講演(2) 昨日の日記で、 ガーゲン先生が、子どもの夜尿症と、性同一障害の「治療」を例に挙げて、行動療法を批判しておられたと書いた。私個人は、これらは必ずしも当を得た批判ではないように思えた。 まず、夜尿症を含めたトイレットトレーニングに関して言えば、いくら価値観が多様化していたとしても、失禁や、それを防ぐためのおむつ着用が望ましい行動であると思う人はまずおられないであろう。ではどうすれば改善することができるか。もちろん、本質原因はケースバイケースでつきとめることが必要であろうが(例えば、背後に大きなストレスがあるとか)、基本的なトレーニングは、レスポンデント条件づけと、オペラント条件づけの原理に基づくものでなければ効果をあげることはできない。この種の改善では、まず大きな目的として何をめざすのかを明確にし、それを達成するための手段として何が有効かを科学的に分析しなければならない。まずは目的が妥当であるかどうかが最重要であって、どういう手段を用いるのかは、倫理的な問題や、緊急性の有無、有効性の比較などから総合的に判断されることになる。手段部分だけを切り取って批判してもあまり意味はないと思う。 とにかく、トイレットトレーニングは、尿意をいかに察知し弁別刺激として利用可能にするかといった具体的な行動修正プログラムによって達成されるものである。「親が愛情を注げば自然に治りますよ」とか「そのうち時期がくれば治りますよ」というのが最善の手段であるとは思えない。むしろ、誤った発達観に基づく「放置」であると言わざるを得ない面がある(←これは、不登校対策でも同様)。 いっぽうの性同一障害の問題であるが、これは現在では、病気として治すのではなく、むしろ、それを事実として社会的に許容する傾向に動いているように思える。私の専門科目の授業で毎回使っている『行動分析学入門』(杉山ほか、1998)では、たまたま「あたしは男に生まれてきた女」という仮想事例が導入部に書かれているため、行動分析学が性同一障害を「治さなければならないもの」と決めつけているような印象を与えているが、このことに関しては346頁でちゃんと説明がなされており、その本で言いたかったのはあくまで ...一見、生得的に決まってしまって変容の余地がないと思われがちの行動にも、じつは習得的なものがあるということ。そしてそれは我々の発達段階のわりと早い時期の行動随伴性によって決まってくるという事実である。こうした行動は、強化や弱化の随伴性を工夫することで変容できるかもしれないし、できないかもしれない。...というように記されている。むしろ、男か女かということのかなりの部分が社会的に構成されるものであり、別の形に変えることもできるという主張につながるものであって、メアリー・ガーゲン先生が論じておられたフェミニスト心理学にも通じるところがあるのではないかと思われる。『行動分析学入門』の事例では、生物的に男に生まれてきた「女」を男に変えるための行動修正が取り上げられてきたが、これはあくまで当人が希望する場合に限られる。何かを悪と決めつけて無理やり修正するわけでは決してない。 次回に続く。 |