じぶん更新日記

1997年5月6日開設
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2010年版・岡山大学構内でお花見(33)マツバウンラン3景

 大学構内各所でマツバウンランの花が見られるようになった。今年は、気温の変動がはげしく、ソメイヨシノの花が散らないうちの開花となっている。昨年の写真は、2009年4月17日の楽天版にあり。さきほど、マツバウンラン愛好会に開花報告を出しておいた。


4月19日(月)

【思ったこと】
_a0419(月)[心理]漢字教育と早期教育

 Yahooのネット配信の中に、

早期教育効果は小学生で消える

という記事があった(出典元のAERAのサイトでは閲覧できないようだ)。麻生奈央子さんというライターによる署名入り記事(4/26号)である。リンク先が削除されてしまうと議論にならないので、少々長くなるが、要点部分を引用させていただく。
  1. 小学校入学前に読み書きを習得する子どもは多い。その風潮に警鐘を鳴らす研究が報告されている。本質的な学力を決めるのは親子関係だという。
  2. お茶の水女子大学の内田伸子教授(発達心理学)の調査によれば、「読み・書き」能力だけみれば、3歳では親の所得や教育投資額が多いほど高かった。しかし、その差は子どもの年齢が上がるにつれて縮まり、小学校入学前に消滅した。文字などの早期教育の効果はわずか、数年しか続かないのだ。
  3. 内田教授は20年以上前に実施した調査で、3、4歳で文字を習得している子と、習得していない子との差は、小学校入学後に急速に縮まり、1年生の9月には両者の差は消えてしまうということを指摘してきた。
  4. 別の研究でも、漢字の習得では、早期教育を受けなかった子どもとの差は小学校2年生ごろに消滅し、むしろ国語嫌いは早期教育を受けた子に多かったということもわかっている(黒田実郎、「保育研究」)。
  5. 内田教授が文字を習得している幼児と習得していない幼児に、それぞれ空想でお話をつくってもらったところ、文字を習得していない子どもの方が想像力豊かな内容だったという。
  6. 過熱する一方の早期教育に警鐘を鳴らしてきた内田教授は、「幼児期には五感を使って親子で体験を共有することが大切です。親子のコミュニケーションや会話のやりとりを通じて、子ども自身が考えて判断し、親子の絆が深まっていく中で子どもの語彙力は豊かになる。お金をかけなくても子どもは伸びるのです」と話す。
  7. 小児科医でもある、お茶の水女子大学の榊原洋一教授は、著書『子どもの脳の発達臨界期・敏感期』の中で、脳神経学的に胎児期や乳幼児期の早期教育の有効性を正当化する科学的根拠はないとしている。
  8. 東北生活文化大学の土井豊教授らが、1997年に幼稚園児の尿を採取してストレス値を比較したところ、早期教育を受けている幼児は、受けていない幼児に比べてストレスが高かった。
  9. 榊原教授はこう話す。「早期教育が子どものストレスにならず『親子のふれあい』に寄与する程度なら使っても良いでしょう」 フラッシュカードは、知能開発のためではなく、親子のコミュニケーションのために使えばよい。
 この記事で少々納得できなかったのは、前半部分5.のあたりまでは幼児の漢字教育の批判、途中から議論がぶっ飛んで、早期教育一般についての弊害を指摘しているという点である。確かに、早期教育の中には、脳科学の受け売りで権威づけをして、おまじないみたいな道具で長時間子どもに無理強いをするようなものが無いとは言えない。しかし、そのことと、子どもたちに早くから漢字を教えることの意義を論じることは全く独立した問題である。そもそも、何を根拠に、漢字を教えることのほうが平仮名で教えることより難しいと言えるのだ?

 昨年の2月19日の日記でも書いたことがあるが、私自身はずっと以前から、熟語の読み学習に関しては、平仮名表記よりも漢字表記のほうが易しいということを主張してきた。同音異義語の多い日本語においては、大人でもすらすらとは読めないような平仮名オンリーの文章から日本語教育を始めることのほうが子どもに負担を強いることであり、早期教育に弊害があるとすれば、平仮名ばかりで日本語を教えることのほうがよっぽど早期教育であり、ストレスの原因になると言いたいくらいである。

 もし日本語が「やまとことば」だけでなりたつのであれば、あるいは平仮名表記だけでもうまくやりとりできたかもしれない。しかし、実際の日本語は、漢字熟語なしにはやっていかれない。「いいいいい」とか、ローマ字で「OOOO」などと書いても何のコトやら分からないが、「良い胃良い」とか「王を追う」と漢字で書けばああそうかと思う。平仮名一文字だって「い」は「胃」や「医」、「え」は「絵」や「柄」や「餌」、「き」は「木」や「黄」や「気」であったりするが、発音が同じ言葉の中で何かの共通性があるわけではない。「同じ発音に異なる意味がある」という教え方をするよりも「違う文字・言葉が、たまたま同じ発音になる」と教えたほうが合理的ではないのかなあ。

 あと、子育てを議論する時には、平均値で比較するのはやめてもらいたいと思う。子どもは一人一人別々であり、漢字が好きな子はどしどし漢字を教えればいいし、漢字が苦手な子は漢字を使わない別の教え方をすればいい。絵が好きならどしどし絵を描き、ピアノが好きならどしどし練習させればいい。「早期教育が子どものストレスにならず『親子のふれあい』に寄与する程度なら使っても良いでしょう」という部分は同感。「早期教育」なるものの効果・弊害などと一緒くたに扱うのではなく、それぞれの子どもの個性に応じて、伸ばせる部分は伸ばし、なかなか伸びない部分は気にしない(←但し、学習障害などの問題がありそうな場合は、早期に対策を講じたほうが将来にプラスになることもある)という態度で、ゆとりをもって接していけば、間違った方向に道を誤ることは決してないと思う。