じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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§§  昨日に続いて、「岡山富士」の「ダイヤモンド富士現象」の撮影に挑戦。写真は、06時35分から06時42分頃の写真。私の住んでいるところから眺める場合、頂上からの日の出は2月29日〜3月2日頃ではないかと推定されるが、週間予報は曇りの予報。

2月27日(月)

【思ったこと】
_c0227(月)「知の身体化」:「花の空間 ―たちあがる視覚、ひろがる身体」

 27日(月)午後に岡山コンベンションセンター内ママカリフォーラムで行われた、

岡山大学学長裁量経費事業「知の身体化」:「花の空間 ―たちあがる視覚、ひろがる身体」

に参加した。

 この催しは先着120名となっていたが、人が全く集まらなくて閑古鳥が鳴くか、数百人以上が押しかけて満員札止めとなるか、主催者側も全く予想が立たない状況であったようだが、結果的には参加者は座席がほぼ埋まる100人前後となり、市民参加の成果発表イベントとしては大成功であったように思う。

 案内サイトには、
琵琶湖・竹生島の都久夫須麻神社。完全非公開の社殿を貴重な画像資料をもとに、巨大パネルと映像を用いたダイナミックな手法で表現します。
 この空間で、観世流の能楽師による能「竹生島」の実演をご覧いただけます。
  • <第1部>「絵画なき時代」 13:00〜
    講師  須賀みほ氏(岡山大大学院社会文化科学研究科准教授)
    ゲスト 小塚直斗氏(東京藝術大 油画技法材料研究室)
        新井啓之氏(日本ヒューレット・パッカード)
  • <第2部>「能―視線と身体」 15:00〜
    講師  金関猛氏(岡山大大学院社会文化科学研究科教授)
    ゲスト 林宗一郎氏(観世流 能楽師)
と記されていたが、どういう形で行われるのか、映像による美術作品の紹介なのか、解説つきの能楽鑑賞会なのか、会場に行ってみるまではよく分からないところがあった。実際に会場に入ると、ホール内の側面と背面には、都久夫須麻神社(つくぶすまじんじゃ)の襖絵(壁画?)や絵天井の一部を再現した巨大なパネルがあり、ホール内の巨大スクリーンを通じて、それらの解説、さらには、竹生島の映像やスクリーン背後に配置されていた絵天井巨大パネルを背景に観世流の能楽師による能「竹生島」が実演されるという、まさに一生に一度限りの価値ある体験をさせていただくことができた。参加者の方々も大いに満足されたことと思う。

 ところでこの研究プロジェクトのテーマ「知の身体化」であるが、最近は心理学の中でもEmbodied Psychology(連載リストはこちら)や、実践としての身体(連載リストはこちら)といった議論があるようだ。もっとも、私のように、卒論研究以来一貫して「初めに行動ありき」という立場で心理学に取り組んできた者から言えば、「知」は、身体化ものではなく、身体化、というか、行動実践の中で形成されていくものであって、純粋数学や物理学ならともかく、少なくとも人間を語る際には、身体から切り離された「知」などは存在しないのではないかという気がする。また、身体自体も、外界から切り離されて独立に存在するものではない。アフォーダンス(affordance)という視点も、オペラント行動や行動随伴性の原理から言えばごく当たり前の視点であって、必ずしも目から鱗が落ちるような新しさは含んでいないように思える。

 少々脱線してしまったが、第1部では、「絵画なき時代」というタイトルにもあるように、日本ではヨーロッパ由来の絵画という概念が成立しないことが強調された。これは、ウィキペディアで議論されているような事柄に加えて、例えば、社殿の天井画などは、壁面や外の風景(今回の場合は、扉の外に広がる琵琶湖)、その日の天候、一日の光の変化などとともに、時間的、空間的な変化とともに、その場に居合わせて鑑賞するべきものであり、原画に十分な光を当てて高精細で撮影して額縁に飾っても、本来の価値は出てこないというようなことであると理解した。

 同じことは、第二部の能についても言える。西洋の演劇のような額縁舞台では、演技者と観客が明確に区別され、観客は、異次元の世界を覗くような形で観賞をすることになるのに対して、能では、観客も演劇に参加し、演技者と一体化するような舞台となっている。また、せりふの中にも、当事者が現実に口にすることはあり得ないような説明的表現も含まれているという。ちなみに、私自身は、学生時代に、大学主催の能楽鑑賞会に何度か足を運んだことがあったが、もっぱら狂言のほうが楽しみであり、能については、なかなか理解できず、退屈に感じることが多かった。しかし、今回は、都久夫須麻神社の絵天井パネルを背景に「竹生島」が演じられたということもあって、臨場感にあふれており、一生に一度の価値ある体験をさせていただくことができた。

 美術や芸術については全くの素人でありコメントできる立場にはないが、私が時たま更新している風景写真についても同じことが言えるかもしれないとは思った。最近アップした雪の金閣寺カラクリ湖などのアルバムもそうだが、素人の私自身には、いくら綺麗な写真が撮れたとしても、写真という媒体だけで現場の感動を伝えることは到底できない。プロならそれができるのだろうが、私のアルバムサイトなどはどう転んでも、旅行会社の案内チラシの写真のようなものであって、実際にその場に足を運んでいただくための参考資料程度の価値しか無いものと最初から割り切って載せている。テレビの自然風景紹介番組なども同様で、いくら高画質であっても、現場そのものを伝えることはできない。一度も行ったことのない場所が紹介される場合と、自分で実際に足を運んだ場所が紹介される場合では、同じような風景が写っていても感じ方がまるで違うということは、たびたびある。