じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
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昨日の日記で、揚げ足取りみたいなクチコミは質の高い批評とは言えないというようなことを書いたが、実は私自身は、重箱の端をつつくようなツッコミが好きだったりする。但し、それはあくまでドラマを楽しむ一環であって、悪口が目的ではない。 写真は、第123話〜124話(2/26〜2/27)の回で、純が愛(いとし)との離婚届けにサインした時の筆跡。純がサインした直後(写真上)と、愛(いとし)があとでそれを視ている時では、以下のような違いが見て取れる。
なお、狩野晴海さんが書いた離婚届(←離婚の話ばっかりやな)の筆跡の違いについてはこちらに証拠写真あり。地デジ後は、ちょっとした筆跡の違いも画面で鮮明にとらえられる。制作者もつまらないことで(←ホンマ、つまらないことやなあ)、ツッコミを受けないように万全の注意を払っていただきたいものだ。 |
【思ったこと】 130228(木)NHK朝ドラ「純と愛」を楽しんで視る人と、腹を立てながら視る人(2)多数派という錯覚 純と愛を考えるの連載の続き。 昨日の日記にも書いたように、この一週間あまりのYahooのみんなの感想へのクチコミ数は、
では、なぜこれほどまでに執拗に攻撃的書き込みを続けるのだろうか。行動分析学の原理から言えば、「一度たりとも感動したことはない」行動は消去されるはず(よって、そのドラマを視なくなるはず)だし、見るのが辛いという人にとってはドラマは嫌子(ケンシ)になるはず(よって、その時間はチャンネルを変えるか、録画してあった別のドラマを視ることで回避するはず)である。しかし実際には、「不快なドラマは許せない。無くしてしまえ」と声高に叫び続ける人たちがいる。 となると、行動分析学の原理から言えば、低評価の書き込みをするという行動は、何か別の好子(コウシ)によって強化されていると考えざるを得ない。そうしたなかで、最近、その最大の好子ではないかと思いつつあるのが、「多数派という錯覚」である。 (ドラマが嫌いになってしまった経緯は人それぞれであり、今後の朝ドラのあり方に反映しなければならないような事情も多々あるが、それはそれとして、)ドラマが嫌いになった人は、何とかしてそのドラマの存在を全否定し、この世から排除しようと、毒をはき出す。しかし、
しかし、このドラマを否定する人たちは本当に多数派なのだろうか。確かに、この一週間のYahooのみんなの感想へのクチコミ数だけから言えば、低評価は4分の3を占めている。しかし、
このことで連想するのが、大音響で街中を走り回る政治団体の街宣車である。近頃では騒音規制のためか(少なくとも岡山市内では)あまり耳にしなくなったが、ああいう車が数台通るだけで威圧感があり、強大な発言力を持っているかのように錯覚してしまう。しかし、ああいう車に乗っているのは、運転者を入れてせいぜい数人。ネット掲示板の書き込みにもそういうところがあり、ごく少数の人たちが複数のIDを使い分けて頻繁に書き込みを行うと、なんだかみんながそう思っているというような錯覚を起こしてしまう可能性がある。 2月15日の日記にも書いたように、同じ時間とエネルギーを費やすのであれば、嫌いなドラマの批判を続けるよりは、自分の好きな別のドラマを見つけて感動を綴ったほうがポジティブな生き方につながるように思う。ジェーン・フォンダさんも You see, if you have, over time, reacted negatively to past events and people, neural pathways are laid down by chemical and electrical signals that are sent through the brain. And over time, these neural pathways become hardwired, they become the norm -- even if it's bad for us because it causes us stress and anxiety.と述べておられるように、否定的な対応を続けることは、自分でストレスや不安を作ってしまうことにつながるので、決してオススメできない。 |