じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
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ハナモモとミモザのコラボレーション。写真左は「ハナモモ一輪とミモザ」、写真右は「ハナモモいっぱいとミモザ」。 |
【思ったこと】 130322(金)日本行動分析学会「熊野集会」(7)高齢者と共に生きる(7)普遍的な効果検証よりも、その人にとって最適のセラピーを 昨日までの日記でダイバージョナルセラピーの話題を取り上げてきた。その中でも「高齢者と共に生きる」という本題からみて私が一番大事ではないかと思うのは、3月20日の日記で取り上げた個性の尊重という視点である。「一人で新聞を読むことも、花を育てることも、その人の身体的、感情的、社会的、スピリチュアルによい影響をもたらすなら、それは“セラピー”といえる。」と言われているように、その人にとって何がセラピーになるのかということは、事前評価なしには決められない。 そう言えば、最近、NHKのニュースなどで、ドッグセラピーが認知症の進行を緩和させるというような話題が取り上げられていた。もちろん、専門的な治療行為として行われる動物を介在させた補助療法としてのドッグセラピーの場合は、(全員ではないにせよあるタイプの人たちには有効という程度での)効果検証が必要であろう。なぜなら、もし全く効き目が無いのであれば、当事者にとって無用な時間となるばかりか、それを導入するために投じたコストまでもがムダになってしまうからである。しかし、それとは別に、犬好きの高齢者に対してAAA(Animal Assisted Activity、動物介在活動)の機会を提供し動物とのふれあいのサポートをすることは大いに意義深いことである。 これは、私自身も学会員となっている園芸療法についても言える。学会では、治療行為の補助療法としての園芸の効用を説く発表もあるが、私個人としては、そういう研究成果にはあまり期待していない。確かに、園芸活動を行う前と後、あるいは、何ヶ月にもわたる園芸活動行事への参加によって、ある種の生理指標やQOL指標が改善されるということはあるとは思う。しかし、療法的効果があるから導入しましょうということになってしまうと、園芸活動は目的ではなく手段になってしまう。要するに、健康増進、認知症進行緩和といった目的を達成するための手段として園芸を行うことになってしまうのである。 そういう形で、「アニマルセラピーは健康に良い」、「園芸療法は健康に良い」、「この食べ物は健康に良い」、「集団で歌を歌うことは健康に良い」というように、すべての活動が手段化してしまったら、高齢者は一日の大半を、健康という目的を維持するための手段的活動に費やすことになる。それでもって維持される健康とは一体何なのだろうか? もちろん、不健康なことは止めたほうがいいし、結果として健康増進に役立つならそれも悪くないが、「健康に良いからやる」という発想は本末転倒。手段と目的が逆になっているのではないかと私は思う。高齢者施設で動物の飼育を検討するとしたら、それは決して治療行為の補助というような手段であってはならない。個別のアセスメントを経た上で、動物の世話をすることが生きがいになるような入居者さんがおられれば、それ自体が目的でなければならない。園芸活動も同様で、植物の世話をすること自体が目的であるべきで、それが健康維持にどこまで有効かというような議論は二の次である。 であるとすると、多種多様な「○○セラピー」なるものは、効果の程度や普遍性で優劣を競うべきではない。自然科学的な発想をする方々の中には、「普遍的な効果を科学的に検証する」ことが唯一の研究の課題であると思っておられる方も少なくないように見受けられるが、そういう効果検証は、狭義の医療行為や薬物の作用の研究の枠内にとどめるべきであろう。それよりもはるかに重要なことは、アセスメントの中で当事者個人個人にとって何が意味のあるセラピーであるのかをしっかりと把握するための科学、そして、当事者がその活動を持続するためにどういう手助けが必要なのかを系統的に提供できる科学である。これらを最も得意としているのは行動分析学ではないかと私は思っている。 次回に続く。 |