じぶん更新日記

1997年5月6日開設
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 岡大図書館・時計台の耐震改修工事の状況。シートで覆われていて内部は見えないが、10月2日頃【写真右】には骨格部分のみに削られていたのに対して、すでに、外壁や時計台の窓ガラスが付け替えられている模様。


2014年1月9日(木)

【思ったこと】
140109(木)100分 de 幸福論(5)『精神現象学』(1)競争的な本性?/孤独

 昨日の続き。

 続く哲学部門ではヘーゲルの『精神現象学』が取り上げられた。前段の経済学と同様、番組では、他者とのつながりの大切さが強調されていた。

 番組ではまず、自由が大切である一方、自由を追求すると孤独になること、孤独になると生きる意味が分からなくなるという、自由の危うさが指摘された。要するに、自分だけの生き方を追求していくだけではダメで、他の人とつながる道を発見していかないと幸福にはなれないということであった。

 ここで登場するのが「承認欲求」であるが、ヘーゲルの著作は難解でなかなかついていけない。【英文であれば、こちらから無料で閲覧可能】。とりあえず、番組で解説されたことを私なりにまとめてみると、意識の成長過程には3段階があり、
  1. 生死をかけた承認の戦い。優位さを争い、それに勝つことで自分を認めさせる。
  2. 自分だけの価値の追求。競争なんてアホらしい。ストア主義的な考え方。世間の競争に巻き込まれず、自分たちだけの価値を追求。自分の個性を表現。
  3. “普遍"を求める意識の誕生。自己満足に終わるのではなく、他人も認めるホンモノの個性の表現。承認を拒否はしていない。これにより、段階2の「自由と承認の矛盾」はある程度解消する。いろんな人が納得するという意味での普遍性を諦めない仕組みに発展。
 このあと、
  • 人間は独りでは生きていけない
  • 人間は他人を必要とする
  • ひとりで幸せで居続けるのは困難
  • 人間は他者によって人間たらしめられている
  • 本当の尊重は、相手に関わらないのではなく、ちゃんと確かめあうこと
といった、孤独に対して否定的な意見が相次ぎ、さらには引きこもりの議論へと発展した。

 ヘーゲルの論点が、上掲だけで尽くされているとは到底思えないが、私のほうでこれ以上の知ったかぶりをしても始まらないので、あくまで番組内容に沿って感想を述べておく。

 まず、「人間には競争的な本性がある」という考え方であるが、私は必ずしもその通りではないと考えている。このWeb日記でも何度も述べているように、競争は原理ではなくて、複合的な強化の随伴性である。競争場面がその人の行動を強化するのは、
  • 努力の質と量を高めると、相応の結果が伴う
  • 早い者勝ちの場面であれば、早ければ早いほどより多くの好子を手にすることができる
  • 優位に立つことで社会的に賞賛され、その後により有益な待遇を受けることができる
といった「好子出現による強化」の随伴性があり、また、いったんチャンピオンになった選手がその地位を守ろうとする時のように、
  • 頑張らなければ今の地位を失う
  • 頑張らなければクビになる
というような「好子消失阻止による強化」の随伴性が働くこともある。しかし、形式上は比較ができても、結果の随伴と無関係であれば競争にはならない。以下のような例はいくらでも挙げられる。
  • 指定席の切符を持っている人が、駅のホームで並ぶ時には順番は気にしない。
  • 1日の呼吸回数を競う人はいない。
  • 収入を増やすことに一生懸命の人であっても、年収の額を競争しているわけではない。【プロ選手の賞金ランキングのような別の評価制度があれば別だが】
  • 家庭菜園で野菜を育てている人は、別段、隣の菜園と競争しているわけではない。
要するに、人間がある場面で熱心に競争するのは、決して「競争的な本性がある」からではなく、競争場面において、「好子出現の随伴性」や「好子消失阻止の随伴性」が強力に働いているからにすぎない。

 次に、孤独や孤立に関してであるが、確かに現代社会では、いっけん自給自足の独り暮らしをしているような人であっても、何かしら他者からのサポートを受けたり、他者の作ったものを入手せずには生きて行かれない。以前テレビで外離島で裸で暮らしている男性の話題が紹介されたことがあったが、その男性であっても月1万円の姉の仕送りで本島の西表島で食料を買い出しを行っているという。

 また別段、孤島で暮らさなかったとしても、歳を取って寝たきりになれば、他者からの介護を受けずに生き続けることはできない。さらに、2013年12月31日の日記でも取り上げたように、孤立する認知症高齢者は大きな社会問題となりつつある。

 もっとも、佐伯啓思の『反・幸福論』でも説かれているように、人は、生まれる時は母親とともにあるが、死ぬ時はみな孤独に死ぬということをわきまえておく必要はある。
生まれる方は母親という他者がいなければ成り立ちませんが、死の方は、これは全く個人的で個体的な現象という以外にない。だから、死とは本質的に「無縁化」なのです。【86頁】
 とにかく、宗教でも信じて神さま仏さまにすがらない限りは、いくら多くの人たちに看取られたとしても、死ぬ時の孤独から逃れることはできない。


次回に続く。