【思ったこと】 140111(土)100分 de 幸福論(6)『精神現象学』(3)承認欲求(2)
昨日白状したように、私は『精神現象学』はもとより、ヘーゲルの思想については全くの素人で何も理解できていないが、「承認欲求」ということに関してはそれなりの考えを持っているので、少々脱線するが以下に記しておくことにしたい。
まず、ネットで「承認欲求」の意味を辞書で調べてみると、以下のような定義がヒットした。
- 他人に自分の存在や考えを認められることを求める社会的要求。【大辞林】
- 人間は他者を認識する能力を身につけ、社会生活を営んでいくうちに、「誰かから認められたい」という感情を抱くようになる場合が多い。この感情の総称を承認欲求という。承認欲求は、主に子供や何らかのハンデを抱えている人々などの社会的弱者、劣等感に悩んでいる人間、そして情緒が不安定な精神病患者やパーソナリティ障害を持つ者に強いという傾向がある。その反対に、自閉症などの他者とのコミュニケーションが難しい、あるいは既に承認されたという経験があるので、それ以上の承認を必要としない人間は、それほど強い承認欲求を抱えない。以上の理由から、承認欲求は先天的な欲求ではなくて、対人関係を学習する過程で育まれる後天的な欲求である可能性が高い。【ウィキペディア】
- 【マズローのいう承認欲求】承認欲求とは、自分が集団から価値ある存在と認められ、尊重されることを求める欲求である。尊重のレベルには二つある。低いレベルの尊重欲求は、他者からの尊敬、地位への渇望、名声、利権、注目などを得ることによって満たすことができる。マズローは、この低い尊重のレベルにとどまり続けることは危険だとしている。高いレベルの尊重欲求は、自己尊重感、技術や能力の習得、自己信頼感、自立性などを得ることで満たされ、他人からの評価よりも、自分自身の評価が重視される。この欲求が妨害されると、劣等感や無力感などの感情が生じる。【ウィキペディア】
しかし、行動分析の立場から見えれば「欲求」は必ずしも必要な概念ではない。人や動物が何かをするのは欲求があるわけではなくて、その行動が強化されているからに他ならない。承認欲求という欲求があるからではなく、他者からの評価、賞賛、地位向上、利権獲得、注目獲得といった好子(コウシ)が伴うから行動しているのである。その証拠に、好子が随伴しなければ、その行動は起こりにくくなるが、それは、欲求が低下したからではなくて、行動が強化されなくなって消去されたからに他ならない。上掲のウィキペディアの項目の中に「承認欲求は先天的な欲求ではなくて、対人関係を学習する過程で育まれる後天的な欲求である可能性が高い。」という記述があるが、行動分析学的では、「承認に関係する好子は、対人接触の中で学習される習得性好子が大部分を占める」というように言い換えることができる。
では、「欲求」を「好子出現による強化」と見なすのは単なる言葉の言い換えに過ぎないのかといえばそうではない。「欲求」を説明概念にしてしまうことは、しばしば、「○○という行動をするのは○○という欲求があるからだ」というトートロジーに陥ってしまうが、具体的な好子として各種の「承認」を定義すれば、それらは、行動とは独立して測定したり、操作したり、さらには、習得性好子としての強化力を増減させることができ、予測や制御の有力なツールになりうるのである。
多くの人々は、承認されることは良いことだと思っているので、承認欲求があるなどと主張されても特に疑問をいだかない。確かに、人それぞれがマイペースで好き勝手なことをやっている社会よりは、相互に承認しあい、より質の高いものをめざしていく社会のほうが平和で発展的であることは間違いない。しかし、個人の行動にどの程度それを求めるのかとなると別の問題である。いくら社会として必要だからといって、そっくり個人に押しつけて制約を課すべきかどうかは議論しなければならない。
1月9日の日記で、意識の成長の三段階の話題を取り上げた。
- 生死をかけた承認の戦い。優位さを争い、それに勝つことで自分を認めさせる。
- 自分だけの価値の追求。競争なんてアホらしい。ストア主義的な考え方。世間の競争に巻き込まれず、自分たちだけの価値を追求。自分の個性を表現。
- “普遍"を求める意識の誕生。自己満足に終わるのではなく、他人も認めるホンモノの個性の表現。承認を拒否はしていない。これにより、段階2の「自由と承認の矛盾」はある程度解消する。いろんな人が納得するという意味での普遍性を諦めない仕組みに発展。
しかし、私なんぞは、若い時はもっぱら1.の段階で、還暦になってやっと2.に到達しつつある段階。もちろん、結果として高く評価してもらうことは有り難いと思うが、そもそも「普遍」なる存在には懐疑的である。しいて言えば、「アンパンマン人生」こそが普遍かもしれないと思う程度である。
次回に続く。
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