じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 農学部・農場の水田に出現した「パラレルワールド」2015年版。この日は美しい夕焼けも見られた。いずれも、上下逆さに表示しており、上の部分が田んぼに写った「パラレルワールド」、下の部分が「リアルワールド」となっている。
過去の記録は以下の通り。



2015年06月06日(土)


【思ったこと】
150606(土)NHK 100分 de 名著43「荘子」(3)はねつるべの話

 昨日の続き。

 渾沌に続いて、「はねつるべの話」が紹介された。これは、『外篇・天地』にある話だが、なかなか奥深い。

 番組の流れから言えば、「(老荘思想にとっては)自然が最高でそこに人為を加えることで自然の生命が失われる」という趣旨であり、はねつるべの喩えが持ち出されてきたように思えた。もっとも、人為を加えることが良しとしないのであれば、そもそも、畑を耕したり水をまくことも人為であるからして、他の類人猿たちのように、森の中での採集のみに依存して生きながらえるべきではないかという気もした。

 じっさい、番組サイトによれば、この部分の趣旨は「機械の便利さにかまけると純真な心を失ってしまうという」であると書かれてあり、大自然に人為を加えることの弊害を指摘したわけではなさそうだ。人為を加えること自体は、はねつるべを用いても用いなくても変わらない。番組では、
  • 機械の便利さに頼るようになると効率を重視するようになり、
  • さらには際限なく競い合うようになる。
  • 物事をスピーディに進めようとするのは時間をつくるためであるはずだが、その作られた時間で何をするのか、むしろ短気で待てなくなってしまっているのではないか
というように話が展開した。

 現代社会において効率性至上主義が弊害をもたらしていることは事実であると思うが、だからといって非効率のほうが良いかと言われればこれまた問題である。また、機械文明の中にあっても、大量生産の技術ばかりでなく、手間暇かけて高品質の製品を作り上げるという技術も重視されている。もとの「はねつるべ」に関しても、さらに効率の高い灌漑技術を開発し、それをもって砂漠を緑の田畑に変えるということは決して悪いことではないように思える。

 けっきょくのところ、「はねつるべの話」は
Happiness does not lie in the possession of positive reinforcers; it lies in behaving because positive reinforcers have then followed.
というスキナーの言葉【詳細はこちら】と同じことを言っているようにも思える。要するに、
好子(コウシ、positive reinforcers)自体を手にしているだけでは決して幸福にはなれない。好子出現によって強化されているような行動の中にこそ、真の幸福(生きがい)がある。
であり、さらに意訳すれば、
モノをいくら手に入れても幸福にはなれませんよ。幸福というのは、行動することで初めて得られるものです。といっても、徒労や強制労働は含まれません。結果として好子が出現するように強化されている行動の中にこそ真の幸福があります。
あるいは、
いくら、好子、好子と追い求めても、真の幸福をもたらす好子など決して存在しません。いっぽう、がむしゃらに行動するだけでも幸福にはなれません。「行動」と「好子出現」がセットになって初めて、真の幸福(生きがい)を実現させることができます。
ということでもある。効率性だけを重視するというのは、行動のプロセスを軽視し、結果の増やすことばかり求めることである。結果だけに囚われている限りは永遠に幸福にはなれない。

 「はねつるべの話」の登場人物にとって、井戸の中に入って水を汲み畑に注ぐという行動が生きがいになっていたのかどうかは定かではないが、例えば、家庭菜園を楽しみにしている人であれば、1つ1つの苗に柄杓で水をかける行動は、スプリンクラーでいっせいに灌水するよりも遙かに生きがいになっているはずである。

 なお、ネットで検索したところ、以下のような文献がヒットした。大いに参考になりそう。
  • 濱崎要子(1996).技術文化と人間形成−『荘子』のはねつるべの話を題材にして−
  • 林久史(2015)機械を有する者は,必ず機事有り。機事有る物は,必ず機心有り。


不定期ながら、次回に続く。