じぶん更新日記

1997年5月6日開設
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 6月25日の日記に記したように、北福利施設(マスカットユニオン)入口には七夕飾りが設置されているが、その後、もう1本追加されて、3本の竹で七夕を迎えることになった。もっとも7月7日は早朝4時台から降り始めた雨が18時頃まで降り続き、その後は曇りという予報になっている。7月7日の19:30〜20:30に予定されている七夕観望会で、実際に望遠鏡による惑星観察ができるかどうかは微妙(但し天候不良の場合は、4次元デジタル地球儀で解説があるという)。

2015年07月06日(月)


【思ったこと】
150706(月)『嫌われる勇気』(8)怒りの効用

 昨日の日記で、本書第一夜(第一章)の「怒りは捏造されるか」の部分に言及したところであるが、ちょうど、NHKの「課外授業ようこそ先輩」(7月3日及び7月6日)で、

「怒りってなんだろう?」 冨永 愛(モデル)

が再放送されていた【初回放送は2014年9月19日】。昨日の日記では「利己的な怒りとは別として、世の中の不公正や人権侵害に対する怒りはやはり必要と言えるかもしれない。」と書いたところであったが、別段、利己的ということではなくても、個人の成長やチャレンジにおいて「怒り」が大きな原動力になることはありうると感じた。

 番組によると、富永さんの場合は、背が高すぎることがコンプレックスになっていたそうだ。そういえば私の場合は、逆に、背が低い(中学入学時で152cm、卒業時で156cm、最高時で162cm、その後高齢化により160cm)ことで学校内で屈辱的な扱いを受けたことがある。
  • 朝礼や体育祭の時は背の高い順に並ばされたため、いつも後ろのほうで前がよく見えなかった。
  • 私の出身高校は男女共学であったが、1クラスあたり男子のほうが5人ほど多かった。このため、体育のフォークダンスの練習をする時間、男女の人数調整のために女子生徒の列に入れらた。
こうした屈辱的な扱いを受けことへの怒りが、勉強のほうで頑張ろうという原動力になったことは確かである。もっとも、そうした反発は20歳前半までであり、それ以降は背が低いことで何くそと思ったことはない。歳をとるにつれて背骨が曲がってきたせいか若干背が低くなってきているが、現在唯一こだわっているのは、ねずみ男と同じ背の高さを保ちたいということ。最近は、ぶら下がり健康器につかまって背骨を伸ばす努力をしている。ちなみに、本書の「哲人」さんは、私よりさらに背が低くて、155cm(アドラーも同じくらい)であると書かれてあった【75頁】。

 以上、相当程度脱線してしまったが、昨日の日記で言及したノーベル平和賞受賞者のKailash Satyarthi氏の場合も含めて、怒りの効用という面にも注目していかなければならないと思う。

 なお、本書では「感情に支配されない」と説かれているが、アドラー心理学はそもそも、「感情と思考などの間に矛盾や葛藤、対立を認めない」という「全体論(Holism)」的立場を前提としているようである。「支配されない」というのは、2つの要素の間に支配・被支配の関係が存在しないと主張しているのではなく、2つの要素に分けることはできない、2つには分割できない個人として捉えるべきだと言っているのではないか、と理解している。

 不定期ながら次回に続く。