じぶん更新日記

1997年5月6日開設
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 8月17日の岡山は、午後になってから雷雨となり、12時台から午後2時台にかけて22ミリの降水量を記録した。また、雷雲接近時には最大瞬間風速25.0メートルの突風が吹いた。この雷雨により、この日の最低気温は、なっなんと真昼の午後1時31分に記録した21.9℃となった。12時14分にこの日の最高気温29.6℃を記録してから30分余りで7.7℃も下がったことになる。

 写真上はレーダーアメダス。中段は真っ黒な雷雲。下段は雨が激しく降っている様子。なお、雷雲と書いたが、8月7日のような派手な稲妻は発生しなかった。

2015年08月17日(月)


【思ったこと】
150817(月)『嫌われる勇気』(37)叱ってはいけない、ほめてもいけない(4)

 8月15日の日記で、「ほめる」、「叱る」という行動は、「ほめる」側、「叱る」側の行動であって、「ほめられる側」、「叱られる側」本位で定義・分類されるものではないと指摘した。「ほめられる側」、「叱られる側」においては、それらは、付加的強化、あるいは付加的弱化として影響をもたらすが、一対一に対応しているわけではない。例えば、Aちゃんがある行動をするたびに、Bさんが「コケコッコー」と叫んだとする。この「コケコッコー」によって、Aちゃんの行動が増えていくのであれば、これは「コケコッコー」という好子出現による付加的随伴性で強化されていると言える。いっぽう、逆にAちゃんの行動が減っていったとすると、「コケコッコー」という嫌子出現による付加的随伴性で弱化されているということになる。「コケコッコー」が好子になるか嫌子になるのかは、Aちゃん次第であって、アプリオリには決まらない。かつ、Bさんが、「ほめる」つもりで「コケコッコー」と叫んだとしても、Aちゃんの行動を弱化してしまうかもしれないし、逆に「叱る」つもりの「コケコッコー」が行動を強化してしまうかもしれない。

 であるからして、「叱ってはいけない」、「ほめてもいけない」という議論は、行動するほうの側の分類、すなわち、
  1. 好子提示の随伴性(好子出現の随伴性)による強化
  2. 嫌子提示の随伴性(嫌子出現の随伴性)による弱化
  3. 好子除去の随伴性(好子消失の随伴性)による弱化
  4. 嫌子除去の随伴性(嫌子消失の随伴性)による強化

のそれぞれにおいて、当事者(叱られたりほめられたりする側の人)にとってのメリットやデメリット、介入の有効性、倫理的妥当性などを検討したうえで、それを行使することの是非を論じる必要があるように思う。

 そのさい、強化または弱化という視点からは、当事者に対する言葉かけ自体は、
  • 好子として機能するか
  • 嫌子として機能するか
  • 何の効果も及ぼさないか
のいずれか3通りであって、それ以上には細かく区別していない点である。すなわち、「ほめる」、「お礼を言う」、「笑顔を見せる」、「ヤベーと叫ぶ」などは、強化または弱化という枠組みの上では質的に区別されることがない。8月14日の日記で引用した、
  • ほめるという行為には「能力のある人が、能力のない人に下す評価」という側面が含まれている。【197頁】
  • 人が他者をほめるとき、その目的は「自分よりも能力の劣る相手を操作すること」であって、そこには感謝も尊敬も存在しない。【198頁】
  • 誰かにほめられたいと願ったり、他者をほめてやろうとするのは、対人関係全般を「縦の関係」としてとらえている証拠。アドラー心理学は、「縦の関係」を否定し、すべての対人関係を「横の関係」とすることを提唱している。【198頁】
といった点は、「ほめる」行為が、相手の行動を強化・弱化する機能と平行して、相手との人間関係を縦方向に変えてしまうということを主張しているものと思われる。しかし、すでに指摘したように、「ほめる」ことが「尊敬」や「感謝」と区別できるものなのか、単なる姿勢の違いなのか、人間関係が縦方向に変化するという証拠はあるのか、などなど、不明確な点が多々あるように思う。

 例えば、お母さんが子どもに対して「上手だねえ。すごいねえ」と声をかけるのは、「無意識のうちに上下関係をつくり、子供のことを自分より低く見ている。【197〜198頁】 」と論じられているが、子どもがお母さんの料理を「上手だねえ。すごいねえ」と評した場合は、お母さんをほめているのではなくて、尊敬の表明であると言えるだろう。では、子どもたちがお互いに「上手だねえ。すごいねえ」というのはどちらに属するのか?といった疑問が出てくる。

 このほか、人間関係を円滑にするために、お互いを褒め合うということもある。また、競技場面での表彰というのは、優勝者の栄誉を称えるという行為であって、ほめているとも言えるし、尊敬の表明であるとも言える。いずれにせよ、「能力のある人が、能力のない人に下す評価」という側面だけに注目して、「ほめる」を否定することはできないように思える。

 不定期ながら次回に続く。