じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
半田山植物園では昨年から続いていた水道施設工事が2月下旬に竣工。3月下旬からは立ち入り禁止区域も解除された。 写真は、工事後に出現したホールの葢。岡大周辺で見られる葢一覧や日本マンホール蓋学会のデータには同一デザインはなく、新顔と言える。 |
【思ったこと】 160403(日)行動分析学における自己概念と視点取得(17)自然科学における私的な出来事(8)「見る」とは何か?「conditioned seeing」 昨日の続き。 『科学と人間行動』(Skinner, 1953)では、「見る」という行動についてのかなり詳しい記述がある。 まず「第8章 環境コントロール」の最後のところで、 The functional control exerted by a stimulus enables us to distinguish between sensing and certain other activities suggested by such terms as "seeing," "perceiving," or "knowing." "Sensing" may be taken to refer to the mere reception of stimuli. "Seeing" is the "interpretive" behavior which a stimulus controls. The term "seeing" characterizes a special relation between behavior and stimuli. It is different from "sensing" just as responding is different from being stimulated. Our "perception" of the world - our "knowledge" of it - is our behavior with respect to the world. It is not to be confused with the world itself or with other behavior with respect to the world or with the behavior of others with respect to the world.【原書140頁】として、単なる刺激刺激の受容と、見るという能動的な行動との違いを指摘している。 第17章では原書266頁から275頁の9頁にわたって、「見る」ということについての詳細な記述がある。次の「第18章 自己」が章全体でも12頁であることを考えると、スキナーが「見る」という行動にいかに注目をしていたのかということが示唆される。 このうち「conditioned seeing」というのは、レスポンデント行動としての「見る」である。事例として、食事の合図であるベルの音が聞こえた時、唾液分泌のほか、実際に見えていないはずの食べ物が見えている可能性があるというような論考があった【原書266頁、翻訳書315〜316頁】。 A man may see or hear "stimuli which are not present" on the pattern of the conditioned reflex: he may see X, not only when X is present, but when any stimulus which has frequently accompanied X is present. The dinner bell not only makes our mouth water, it makes us see food.もっとも、もし日常生活でそのような条件反応が頻繁に出現したとしたら、風景は一変してしまう。最近めざましい発展をとげている“超”仮想現実が、何の装置も使わずに、レスポンデント条件づけだけで実現してしまうことになるが、これでは環境にうまく適応することはできない。道路と妖怪を繰り返し対提示するだけで道の向こうから妖怪がやってくるように見えたり、レストランの前を通るだけで食べ物がぶら下がっているように見えたりしたら、安心して道を歩くことさえできない。 ということもあり、我々の目に入ってくるのは、「いま、ここ」にある世界のみである。条件反応としての「seeing」は、通常は「思い浮かべる」という形をとり、現実世界とは容易に区別できる。 もっとも、我々の目に入ってくる世界といっても、実際に見えていると思っているのは、ある程度、加工され、翻訳された世界である。原書267〜268頁には、知覚の恒常性やゲシタルト知覚の例として、トランプのスーツの色と形(ちらっとみたマークの色が赤色であれば、スペードやクラブではなくハートやダイヤの形に見える)、欠けたリングが欠けていないように見える現象などが挙げられている。じっさい、多義図形では、見慣れた図形に見えやすくなること、つまり過去に繰り返しレスポンデント条件づけされていると、その形に見えやすくなってしまうことが知られている。 このほか、原書268頁では共感覚(synesthesias )にも言及されている。以前NHKの「爆笑問題のニッポンの教養」(2011年11月3日放送)で共感覚の話題が取り上げられたことがあるが、共感覚の一部は、どうやら幼少時のレスポンデント条件づけの影響を受けているようであった。例えば、ピアノの練習時、ドレミに赤、黄、緑といった色を対応づけた経験を繰り返しているうちに、音を聞いただけで色が見えてくることがあり、一部の人は成人になっても残るなどと言われている。これはまさに、「conditioned seeing」と言えよう。このほか、文字に色がついて見えるという人も、最初から色がついているわけではない。共感覚者の外国時が漢字を覚えた場合、ある程度習熟してからでないと色がつくことはないという。 以上、いくつか「conditioned seeing」の事例を挙げてきたが、行動分析学の中では、後に幾分修正されたものの、その後の行動分析学の研究の中ではあまり注目されなくなっていったように思う。ネットで検索したところ、Stanford Encyclopedia of Philosophyの中のMental Imageryの項目に関連したMental Imagery:Supplement to Mental Imagery:The American Response: Behaviorist Iconophobia and Motor Theories of Imageryというところに「conditioned seeing」の経緯に関する批判的記述があった。 Skinner briefly describes his own experiences of auditory, musical imagery, and in his influential Science and Human Behavior (Skinner, 1953), he discusses, in a speculative way, the causes of what he calls “conditioned seeing” and “operant seeing” (1953 ch. 17), which are clearly intended as non-mentalistic ways of referring to the experiencing of imagery, that will not violate Behaviorist principles. In his About Behaviorism (1974), Skinner reiterates essentially restates his earlier position, but allows himself to speak more freely of “visualizing,” “imaging,” and “seeing in the absence of the thing seen.” 行動主義の大原則を守りつつ(「Behaviorist Iconophobia」と揶揄されている)イメージを研究対象とするさいの苦肉の策のように受け止める立場もあるようだ。 次回に続く。 |