じぶん更新日記

1997年5月6日開設
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 教育学部東棟近くにあるフクロウ像が落ち葉と枯れ枝で飾り付けられていた。単なるイタズラなのか、芸術作品なのかは不明。なお、このフクロウには尖った耳ががついているので、ミミズクの仲間と言ったほうが正確かもしれない。

2017年11月8日(水)


【思ったこと】
171108(水)五木寛之『孤独のすすめ』(2)あきらめる、おさめる

 昨日に続いて

五木寛之(2017)『孤独のすすめ 人生後半の生き方』中央公論社

の感想。

 本書の第1章は、“「老い」とは何ですか”というタイトルになっている。加齢はいかにも悪いことのように思われがちであり、世間ではアンチエイジング・ビジネスも盛んであるが、まずは「諦める」ことが大切。ちなみに、この「諦める」は本来「明らかに究める」であるとされている。確かに大辞泉で「あきらめる」を調べると、諦めるのほかに「明らめる」という言葉のあることに気づく。その意味は「1. 事情や理由を明らかにする。はっきりさせる。」、「2. 心を明るく楽しくする。気持ちを晴れやかにする。」となっている。大和言葉としては、当然、こういう意味も含めて「あきらめる」べきであろう。 なお、私自身も「アンチエイジング」には否定的であるが、健康寿命を延ばすために何らかの努力をすることは大切であると考えている。

 続いて「治す」ではなく「治める」と論じられている。このあたりは、ACTのコントロール神話否定の考えと酷似しているところがある。この「おさめる」にも、大和言葉としては「収める:その物を本来あるべき(ふさわしい)場所に入れて望ましい状態にする。」(『新明解』)という意味があり、おそらく通じるところがあるものと推測される。

 人生を「登山」と「下山」という二つの相に分ける考え方については、私自身はしっくりこないところがある。11月6日にも述べたように、
  • 人生は1つの山を登って下りるというほど単線的なものではない。むしろいろいろ寄り道をしたり、同じ場所を歩き回るなど、複雑な径路をたどるものである。
  • 高齢期を下山に喩えてしまうと、ふもとまで戻らなければならず、その途中で行き倒れになってしまったら中途半端な人生になってしまう。出口論であれば、最寄りの出口から出るか、もうしばらくウロウロしてから出るかといった選択が可能。
  • 人生を「登山」に喩えてしまうと、登った山を振り返ることが人生の評価に繋がるように思えてしまうが、「いま・ここ」を生きる上では過去にどういう山を登ったかということはそれほど重要ではない。
といった理由によるものであり、私自身は「下山」よりは「出口」を好む。

次回に続く。