じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
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3月23日(金)は岡大で卒業式が行われた。(卒業式は毎年3月25日に行われているが、今年は25日が日曜日のため、2日早い。) 写真は、恒例の生け花。ミモザ、花桃、ジャノメエリカ、ピンク雪柳(フジノピンキー)、ローズマリーから構成されている。定年退職直前の最後の卒業式となるため、生け花もこれが最終回。 ※昨年以前の生け花の写真がこちらにあり。 |
【思ったこと】 180323(金)第23回人間行動分析研究会(11)徹底的行動主義とは何だったのか?(7)文脈って何だ?(5)見本合わせと文脈 3月22日の続き。 文脈の制御を受ける実験手続として、対応づけ課題がある。「対応づけ」というのは「見本合わせ」の代わりに私が勝手に名づけた呼称であり、その理由は、見本刺激Aに対応して選択肢の中からBを選ぶというのは、必ずしもAとBは同じということではない点を強調するためであった。要するに、見本合わせというのは、ある刺激Aから別の刺激Bに「A→B」という矢印を伸ばすような反応をするということであり、これを「対応づけ」と呼びましょうということである。(詳細は、こちら参照。) 例えば、犬の写真が見本刺激として呈示され、「肉」、「人参」、「牧草」という漢字カードの選択肢から1枚を選ぶとしよう。この場合、犬の食べ物である「肉」が選ばれたとしても、実物の犬が「肉」と同じであることにはならない。「食べ物は何ですか?」という文脈のもとで、犬と、犬が食べる食べ物を対応づけしているにすぎない。 何かを対応づける、あるいは何かを比較するという課題は、選択肢を並べただけでは正解を出すことができない。比較される複数の刺激だけでなく、どのような対応や比較が求められているのかという文脈が与えられることによって初めて、文脈に添った正解を出すことができるのである。文脈は、「同じものを選んでください」というように言語的に明示される場合もあるが、「同じものを選んだ時だけ強化される」というように強化の随伴性によって規定されている場合もある。前者は一般には言語刺激を手がかりとしているが、例えば、「青い照明のもとでは、同じ形の刺激を選べば正解、赤い照明のもとでは違う形の刺激を選べば正解」というように、照明の色を手がかりとして文脈的制御をすることはできる。後者は、人間以外の動物でも十分に学習可能である。 次回に続く。 【思ったこと】 180322(木)第23回人間行動分析研究会(10)徹底的行動主義とは何だったのか?(6)文脈って何だ?(4)弁別と文脈 3月21日の続き。 これまで述べてきたように、文脈と弁別刺激との間には絶対的な区別はない。
ちなみに、長谷川版・行動分析学入門の中では、弁別刺激(好子出現による強化の場合)は、 刺激Aが提示された場合(もしくは、存在する場合)と呈示されない場合(もし は存在しない場合)において、というように定義しているが、この「刺激A」というのは、呈示者(実験者、支援者、動物の訓練者など)が好き勝手に決めてよいというものではない。長谷川版の「3.7.5. 弁別における手続的定義と制御変数的定義」のところでも述べているように、当事者(行為遂行者、被験体)は、「刺激A」の一部の特徴を利用するかもしれないし、「刺激A」を含む複合的な刺激全体を手がかりとするかもしれない。通常、「刺激A」以外の部分をすべて把握することはできないので、これらの複合体が「文脈」と呼ばれることになる。 (厳密に実験的に統制されているような場面は別として)日常生活行動における弁別行動というのは、「弁別刺激+文脈」を手がかりとして行動することである。このうちの「弁別刺激」部分は制御変数的に定義されるべきであり、「文脈」部分は「同じ文脈か、異なる文脈か」というように大ざっぱに区別されるべき、と考えるのが妥当かと思う。 交通信号の「青」←「青」が普遍的に「進んでよい」という行動の弁別刺激になっているわけではない。 次回に続く。 |