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【小さな話題】 「いま、ここを生きる」か「時空の関係反応の海で生きるか」 少し前に放送された又吉直樹のヘウレーカ!「独り言をつぶやくのはなぜ?」で、「動物はきのうやあしたを理解できない」という話題が取り上げられていた。動物の子育てはその瞬間瞬間に子どもとの対応をしているだけで、この子がひとり立ちしたら何をしようかなどと考えているわけではない。渡り鳥はただ飛んでいるだけ。「冬に備えて餌を貯める」という言い方をするが、これは擬人的な表現であり、温度が下がってくると餌を貯めるような行動が出てくるだけであって、「寒くなるからそれに備えて餌を貯めよう」と考えているわけではない。 似たような考え方は、「チコちゃんに叱られる!」鳥はなぜ抱卵するのか?でも表明されていた。鳥は別段、卵や雛に愛情を注いでいたり、雛たちと一緒に暮らすことを楽しみにして抱卵しているわけではない。単にその瞬間瞬間に「体が冷えて気持ちがいいから」抱卵しているに過ぎないのである。 こうしてみると、人間以外の動物たちは「いま、ここを生きる」ことに徹しているとも言える。これに対して、人間は、言葉を使うことによって、過去や未来、あるいは、他所や他者といった別の世界と関連づけながら(より正確に言えば、恣意的な関係反応を派生させながら)、「いま、ここ」と派生される関係反応を重ね合わせて生きていると言える。「じぶん」という特殊な感覚も、そうした重ね合わせがあればこそ生まれるものである。 では、「いま、ここ」を重視する生き方と、過去や未来やあそこなどとの関連づけを重視する生き方のどちらを選ぶほうが良いと言えるのだろうか。これは、その人の置かれた状況や、年齢によってマチマチであるように思える。 一般に心理療法は、「いま、ここ」を重視した生き方を推奨するようである。それは、心理療法を必要とする人たちの多くが、過去の失敗を後悔したり、他者との人間関係で問題を抱えていたり、将来の進路に過度に不安を抱えていたりするためである。しかし、だからといって「いま、ここ」が最善の生き方であるとは断定できない。むしろ、適切な範囲で過去を回想したり、具体的な目標を持ってその実現のために準備をする生活のほうが張り合いがある場合もある。 私自身の例を挙げれば、海外旅行から戻った後に写真を整理して、旅行記をまとめることは、旅行中の体験以上の楽しみになることがある。また、今回の西チベット旅行などもそうだが、高地に出かけるともなれば日々の鍛錬がやはり必要。近隣の半田山植物園の山にほぼ毎日登るという行動は、そうした目的があればこそ継続できたとも言える。 来月中旬には、高齢者の生きがいについて話をさせていただく機会があるが、高齢者における生きがいの喪失は単に「いま、ここ」における強化機会が奪われているということではなく、むしろ、過去や未来といった時間的な事象、あるいは他者や他所といった空間的な事象に対して、適切な関係反応が派生しないことに起因しているようにも思えてならない。 |