じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 ベランダで育てている鉢花の水仙が一輪だけ開花した。ペチコート水仙(ナルキッソス・ブルボコディウム、ナルキッスス・バルボコディウム、【写真右】)を育てていたつもりだったが、咲いたのは、「ナルキッスス・ルビコラ」に似た形の花だった【写真左】。なぜ違う花が咲いたのか、謎である。

2021年3月20日(土)




【連載】まいにち養老先生の名言(7)「冬を送る」 言葉の役割

 3月19日に続いて、養老先生の番組の話題。

 2月6日の日記に記したように、「レギュラー番組への道」のシリーズで私が録画しているのは、「めぐる春」、「冬を仰ぐ」、「冬を送る」の3回分であり、本日取り上げる「冬を送る」では、猫の「まる」との別れのシーンがあり、実質的にこれが最終回となっているようだ。

 「冬を送る」の中で印象に残っているのは、言葉の役割についての名言であった。発端は、鎌倉・瑞泉寺の修行場の「不立文字」であった。
【「うまく言葉を使いこなせない、思っていることと言いたいことが一致しないのはなぜ」という質問に対して】もともとそういうものを表すものじゃないんでしょ、言葉というのは。「あっちに牛がいる」、「狼がいる」、そういう情報を伝達するための道具であって、それがどんどん時代が過ぎると自分の言い分を言うのに変わっていく。それはもともとの言葉の使い方じゃない。料理が典型だけど、けっきょく「美味い」としか言えない。どのくらい、どういうふうに美味いかは本人じゃないと分からない。自分の考えていること、感じていることを言葉は最終的に表現できない。「苦しそうだな」とは思うけど、どのくらい、どんなとかは分からない。【長谷川により一部改変】
以上の語りには、行動分析学的にみていくつか重要な論点が含まれているように思う。
  1. スキナーの分類によれば、「あっちに牛がいる」、「狼がいる」というのはタクト、「自分の言い分を言う」というのは内容にもよるがマンドということになる。養老先生は、タクトが先で、後からマンドが派生したというように述べておられたが、「○○をください」というようなマンドは、幼児期のかなり早い段階から見られる。必ずしもタクトが先にあったと言えるかどうかは分からない。
  2. けっきょく「美味い」としか言えない。どのくらい、どういうふうに美味いかは本人じゃないと分からない。自分の考えていること、感じていることを言葉は最終的に表現できない。」というのは私的出来事(私的事象)のタクトが限定的であることを意味する。これは確かにその通りであり100%の表現は不可能であるが、であればこそ、人々は、様々な比喩、形容詞、絵画、音楽などを使って、可能な限り、自分の感じていることを他者に伝えようと努力してきたようにも思える。
  3. 上記2.はまた、当事者の行動は、本人の言語報告だけでは捉えきれないことを意味している。しかし、当事者の考えや感じていることは必ず何らかの行動に表れる。例えば、「どのくらい美味いか」というのは、当事者の食べ方、食べ物の選び方、頻度などに示される。少なくとも当事者というシングルケースの中での重みは、行動を通じて捉えることができるはずだ。
 この回では、養老先生が箱根に出張中、まるの容態が急変し、庭先で永眠。これをもって、少なくとも番組タイトルの「ときどき まる」は実質最終回となった。

 いずれ「春を歩く」、「春を思う」、「秋を漂う」など、私が録画できていない回の再放送があれば、また感想を述べさせていただこうと思う。