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おかやまケンコー大作戦の一環として、4月15日から、バーチャルウォーキングラリー〜目指せ京都!あるく東海道五十三次〜という企画が始まった。5月2日集計時点では、私は、933位/13691人、平均歩数8764歩、静岡県最西端の荒井宿(湖西子新居町)まで到達している。しかし、このラリーに関して2つほど疑問が生じた。
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【小さな話題】ウィキペディア「#チコちゃんに叱られる!」放送リスト削除をめぐる議論/「番組で見た」内容をそのまま記すことは検証可能性を満たさないか? 数ヶ月前から、ウィキペディアのチコちゃんに叱られる!の放送リスト(毎回の放送日、取り上げられた疑問、出演者などのリスト)が削除され、「#チコちゃんに叱られる!」の感想と発展的考察を執筆する上で不便を強いられるようになった。 3月21日の日記で述べたように、放送リストは、
このことについて、最近、新たに気づいたことだが、ウィキペディアの編集方針の中には、 検証可能性を確保することも重要な方針です。ウィキペディアに掲載される情報は信頼できるものでなければいけません。信頼できる情報源から公表されている事実や議論だけを掲載してください。記事には出典を明記すべきです。情報源が明らかでない内容は、異議を述べて取り除くことができます。というルールがあり、検証可能性についてはさらにこちらに詳しい基準が示されていることが分かった。その中の信頼性に乏しい情報源として、 一般に、信頼性に乏しい情報源とは、事実確認について評判がよくない情報源、あるいは事実確認の機能を欠く情報源(「TVで観た」や「ラジオで聴いた」など)、または編集上の監督を欠く情報源です。という例示があり、このことから、チコちゃんに叱られる!の上部にも、 ●「番組で見た」内容をそのまま記すことは検証可能性を満たしません。第三者の言及があるもののみ書いてください。 と警告されていた。 私はこれまで、チコちゃんの放送リストというのは、番組を視聴した人【録画再生で視た人を含む】が、放送内容を書き起こして、放送終了後に加筆していたと思っていたが、上記の警告を拡大解釈すると、どうやら、番組で視たというだけでは検証可能性が担保されない。第三者、例えば「TVでた蔵」で活字化されてからでないと、編集ができないことになってしまう。 しかし、「「番組で見た」内容をそのまま記すことは検証可能性を満たしません。」を拡大解釈し、だから放送リストは削除すべきだという主張は、根本的に間違っているように思う。 もちろん、「見たことをそのまま記す」ことは必ずしも事実とは限らない。例えば、ある人が「ある晩に宇宙人を見た」と報告しても、それだけでは真実とは認められない。その人自身にとっては100%確かな出来事であっても、信頼できる第三者によって検証できなければ、単なる錯覚や幻覚であると見なされるだろう。 しかし、テレビ番組の場合、「見たことをそのまま記す」ことは常に検証可能である。例えば、ある人が、ウィキペディアの放送リストに、4月30日の放送で黒柳徹子さんが出演したと記述したとする。この事実は、放送後1週間以内であればNHKプラスでも、私の録画でも、あるいはNHKで保存されているはずの元の映像ファイルでも確認できる。上記の「ある晩に宇宙人を見た」ことと、チコちゃんの番組で黒柳徹子さんを視たこととは、全く異なるのである。 ウィキペディアの編集方針が制定された経緯は知らないのだが、「TVで観た」や「ラジオで聴いた」が信頼できる情報源になりえない、というのは、 ●「AはBである」ということをテレビで観た からといって、「AはBである」とは限らない。「AはBである」ことを示す確かな証拠が必要である、ということを意味しているはずだ。 いっぽう、 ●あるテレビ番組で、「AはBである」と放送していた というのは、上記のように、録画ファイルでも、放送局が保有する映像ファイルでも検証可能である。 放送リストの検証可能性というのは、その日時にどういう放送が行われたかという事実関係に関するものであって、放送された内容自体が真実かどうかとは別の問題である。 なお、最近では画像処理技術の進歩によって、さまざまなフェイク動画が拡散するようになり、単に動画を見せて、これが証拠だとは言えない時代になっている。しかしだからこそ、検証可能を担保した、信頼できる情報の提供が求められているのであって、検証手段が無いといった屁理屈をつけてそれらを削除していくと、テレビ番組で何が語られたのかという資料は何も残すことができなくなってしまう。 |