じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
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 数日前、ウォーキングの際に文法経講義棟の前を通ったところ、「警察官巡回中 特別警戒実施中」の貼り紙が目にとまった。共通テスト当日の切りつけ事件を受けて万全の対策を講じたためと思われる。もっとも、切りつけ事件を引き起こすような危険人物がこの1枚の貼り紙を目にする可能性は低く、犯罪を抑止できるかどうかは定かではない。受験生を安心させるための効果はあったと思うが。


2022年2月7日(月)



【小さな話題】令和の寺子屋「生命って何だろう 生物学者・福岡伸一」その7 死は利他的か?/「動的平衡」は科学概念か?

 昨日に続いて、NHK-Eテレで1月30日の16:15〜17:00に放送された表記の番組についての感想。今回で最終回。

 福岡先生は、視力検査で使うランドルト環のような欠けた輪を生命に喩えて、「全ての生物はなぜ死ぬか」について説明を続けられた。それによれば、
  • 生命を坂の上にある輪に喩える。
  • 輪は、引力により、そのままでは坂を転がり落ちてしまう。その引力の力をエントロピー増大側に喩える
  • 生物は細胞の一部が壊れると、そのバランスを取ろうとして新たな細胞が合成される。
  • その分解と合成によって坂を上る力が生まれ、坂を転がり落ちないで済む。これを動的平衡と呼ぶ。
 もし分解と合成のバランスが保たれていれば生命は永久に死なずに済むが、実際には分解のほうが勝っている。生命に喩えられた輪は坂道を上っていくのだが、輪自体はだんだんと短くなり消滅してしまう。これが死であるという。
 もっとも、個体は死んでしまうが、これは悲しむことではない。我々の生命体は何かを取り入れたり出したりすることで他の生命体とバトンタッチをしている。私たちも皆、次の世代にそのバトンを渡すことができるはず。死は、生命全体から見ると非常に利他的であり、死ぬことで、他の個体がその空いた場所を埋めることで地球は回っていく。要するに「死ぬ」とは「命を繋ぐこと」ということで講義は締めくくられた。

 ここからは私の感想・考察になるが、今回の講義はあくまで小学生向けに行われたものであり、テロメアが短くなることで細胞分裂が停止されるというような説明は含まれていなかった。おそらく、ランドルト環のような欠けた輪は、本当はテロメアを示唆しており、老化とともにテロメアがまるで回数券を使うかのように短くなっていくさまを図に表したものと推測される。
 放送では、なぜ細胞の合成より分解のほうが勝っているのかについては特に説明が無く、会場からも質問は出されなかった。私自身が考える理由は、やはり、
  • 細胞の分裂(=合成)はがん化のリスクを高める。それゆえ、がん化で無秩序な分裂が暴走する前に、頃合いを見計らって分裂をストップさせてしまう。
  • 種全体としてみれば、「古い個体」を無理に生かすより、「新しい個体」をつくる方が効率的。要するに、古い個体をどうにかこうにか修繕して長持ちさせていくような種よりも、適当なところで新しい個体にバトンタッチさせていく種のほうが地球環境に適応しており、結果として生き残った。
というところにあるのではないかと思っている。

 個体の死が利他的であるかどうかは、視点の取り方によるのではないかと思う。一般的に生物は、特殊な状況(例えば産卵を終えたサケとか、メスに食べられてしまうオスの蜘蛛やカマキリなど)を除けば、常に個体をできるかぎり存続させようという方向で行動している。なのでその当事者から見れば常に利己的である。いっぽう、周囲の立場から見れば、ある個体が死ぬということは概ね利他的と言える。じっさい、我々は多くの動植物を殺すことで生きながらえており、豚肉、牛肉、鶏肉となった個体は、食べる側から見れば利他的ということになる。人間の場合も、組織を構成する誰かが死ねばポストが空くので、新たに活躍できる場が生じるという点で利他的と言える。但し、家族や仲間の誰かが死ぬと、共同作業が困難になったり、精神的な支えを失ったりすることがあり、その点では決して利他的とは言えない。本題から逸れるが、利己的とか利他的というのは、「誰にとって、誰が、どういう立場から見るか」によって全く変わるものである。料理人が「お客さんに喜んでもらうために美味しいものを作ります」というのは利他的だが、その料理を食べるお客は利己的である。庭師が植物の世話をするのは利他的だが、植物は別段、庭師や見物人たちを喜ばせるために花を咲かせるわけではない(←品種改良の過程では人間が喜ぶような花を咲かせた品種のほうが生き残る可能性が高まるが)。いずれにせよ、「利他的は美徳で利己的は悪徳」という考え方には落とし穴があると思っている。

 福岡先生の「動的平衡」の理論については、現時点ではまだ理解できていない。例えば、『動的平衡 生命はなぜそこに宿るのか』という御著書のアマゾンのカスタマレビューを拝見すると【いずれも抜粋引用】、
  • 本書を読めば、概念が明確になるだろうと期待したが依然として曖昧のままだ。...動的平衡という見掛け科学用語の体をとりながら、概念自体は作者の様々な思いが詰まった文学的説明になってるので、曖昧と感ずるのではないかと思う。あるいは、作者にとっても、まだ、曖昧さが残る未完のテーマなのかも・・。
  • 唯識三十頌から容易に考察できます。著者には是非唯識三十頌を読んでもらいたいものであります。
  • この本が取り上げた話題は新しいが、議論は諸種の既存の知識の切り貼り。世に啓蒙書とよばれるもの多々ある。その内容の秀逸さのRange の幅は広い。この本が著者によるパフォーマンスとおもえば著者はよきパフォーマーであろう。 しかし、著者は非平衡熱力・統計力学の論文読めますかな?生物系の研究者には無理でしょう?勿論人によりますが・・・。
  • 動的平衡というのはもともとフランスの哲学者のベルクソンという人が考えた「哲学」なのです。そこに科学的なバックアップは全く存在しません。またそれを福岡伸一が実験で証明したわけでもありません(この人の論文数は非常に少ない)。全ての事象を「動的平衡」で説明しようとするその議論の荒さには哲学というより、宗教的な危険性を感じます。
  • 「動的平衡」とは、実験と観察に支えられた科学的説明の概念なのではなく、科学そのものを根底から支えている機械論に対する異議申し立てである(したがって、これを科学的説明の概念と、同じ土俵にのせて議論をしようというのはお角違いということになる。こうしたことはエッセイならではのことであり、「動的平衡」という概念に科学的根拠が乏しいなどと考えるのは、エッセイというメディアであることを無視している)。
  • タイトルの動的平衡の概念はあちこちで出てくる。しかし例えば個体の恒常性と生態系の恒常性は別のメカニズムで維持されているわけで、どれもこれも動的平衡で説明するのは乱暴すぎではないだろうか。生物の様々な現象が「動的平衡とみなせる」のは確かだとしても、それが正確には何を意味しているのかを説明できなければ。
  • 著者の言う"動的平衡"は,化学熱力学で用いる動的平衡と異なり,非平衡系での自己組織化や散逸構造の事を言いたいのであろうことに気付きます.著者は,既にある科学用語を無視(知らない?)して,既存の科学概念に新たに名前を付けているわけです.
    また,"動的平衡"が新たな科学的な概念と主張するなら,熱力学や統計力学を基礎とした議論が必要ですが,それらは何処にも存在しません.専門家との議論を避け,一般書だけで発表しているだけです.
といった厳しい指摘もあり、それぞれなるほどと思われるところがある。科学概念ではなく、あくまで、哲学的概念、もしくはエッセイの中に登場するメタファーとして受け止めたほうがすんなり収まるようにも思う。