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数日前、ウォーキングの際に文法経講義棟の前を通ったところ、「警察官巡回中 特別警戒実施中」の貼り紙が目にとまった。共通テスト当日の切りつけ事件を受けて万全の対策を講じたためと思われる。もっとも、切りつけ事件を引き起こすような危険人物がこの1枚の貼り紙を目にする可能性は低く、犯罪を抑止できるかどうかは定かではない。受験生を安心させるための効果はあったと思うが。 |
【小さな話題】令和の寺子屋「生命って何だろう 生物学者・福岡伸一」その7 死は利他的か?/「動的平衡」は科学概念か? 昨日に続いて、NHK-Eテレで1月30日の16:15〜17:00に放送された表記の番組についての感想。今回で最終回。 福岡先生は、視力検査で使うランドルト環のような欠けた輪を生命に喩えて、「全ての生物はなぜ死ぬか」について説明を続けられた。それによれば、
もっとも、個体は死んでしまうが、これは悲しむことではない。我々の生命体は何かを取り入れたり出したりすることで他の生命体とバトンタッチをしている。私たちも皆、次の世代にそのバトンを渡すことができるはず。死は、生命全体から見ると非常に利他的であり、死ぬことで、他の個体がその空いた場所を埋めることで地球は回っていく。要するに「死ぬ」とは「命を繋ぐこと」ということで講義は締めくくられた。 ここからは私の感想・考察になるが、今回の講義はあくまで小学生向けに行われたものであり、テロメアが短くなることで細胞分裂が停止されるというような説明は含まれていなかった。おそらく、ランドルト環のような欠けた輪は、本当はテロメアを示唆しており、老化とともにテロメアがまるで回数券を使うかのように短くなっていくさまを図に表したものと推測される。 放送では、なぜ細胞の合成より分解のほうが勝っているのかについては特に説明が無く、会場からも質問は出されなかった。私自身が考える理由は、やはり、
個体の死が利他的であるかどうかは、視点の取り方によるのではないかと思う。一般的に生物は、特殊な状況(例えば産卵を終えたサケとか、メスに食べられてしまうオスの蜘蛛やカマキリなど)を除けば、常に個体をできるかぎり存続させようという方向で行動している。なのでその当事者から見れば常に利己的である。いっぽう、周囲の立場から見れば、ある個体が死ぬということは概ね利他的と言える。じっさい、我々は多くの動植物を殺すことで生きながらえており、豚肉、牛肉、鶏肉となった個体は、食べる側から見れば利他的ということになる。人間の場合も、組織を構成する誰かが死ねばポストが空くので、新たに活躍できる場が生じるという点で利他的と言える。但し、家族や仲間の誰かが死ぬと、共同作業が困難になったり、精神的な支えを失ったりすることがあり、その点では決して利他的とは言えない。本題から逸れるが、利己的とか利他的というのは、「誰にとって、誰が、どういう立場から見るか」によって全く変わるものである。料理人が「お客さんに喜んでもらうために美味しいものを作ります」というのは利他的だが、その料理を食べるお客は利己的である。庭師が植物の世話をするのは利他的だが、植物は別段、庭師や見物人たちを喜ばせるために花を咲かせるわけではない(←品種改良の過程では人間が喜ぶような花を咲かせた品種のほうが生き残る可能性が高まるが)。いずれにせよ、「利他的は美徳で利己的は悪徳」という考え方には落とし穴があると思っている。 福岡先生の「動的平衡」の理論については、現時点ではまだ理解できていない。例えば、『動的平衡 生命はなぜそこに宿るのか』という御著書のアマゾンのカスタマレビューを拝見すると【いずれも抜粋引用】、
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