じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 3月17日(木)の朝は晴れていたものの黄砂飛来の影響で霞んでおり、輪郭のはっきりとした日の出を眺めることができた。3月16日の日記の終わりのところに記したように、3月17日の岡山は、日の出が午前06時13分、日の入りが午後6時13分で、日の出と日の入りの時刻がいずれも6時13分、形式上、昼と夜の長さが同じになる日であった。もっとも、撮影場所からの日の出は、山があるために少し遅れて06時17分頃となった。また夕刻は曇り空となり、日の入りの写真を撮ることができなかった。
 なお、周辺の山があるために、暦の上の日の出時刻と比べて実質的な日の出が4分ほど遅れること、また実質的な日の入りが4分ほど早まることを勘案すると、実質的に昼と夜の長さが等しくなるのは、3月20日〜3月21日頃となる。なので、「春分の日は昼と夜の長さが等しい」というのは、暦の上では誤りだが、撮影場所ではほぼ正しいことになる。
 あと、今年の場合、太陽が真東から昇るのは3月19日(方位90.3°)〜20日(方位89.8°)、真西に沈むのは3月19日(方位270.0°)となり、いずれも春分の日より少し早い。これはおそらく、日の出と日の入りの定義の問題によるものと思う。

2022年3月18日(金)



【連載】ヒューマニエンス「“時間” 命を刻む神秘のリズム」(3)文明と時間

 昨日に続いて、2021年12月16日に初回放送されたヒューマニエンスの番組についての備忘録と感想。

 放送の中程では、「文明は“時”を創りあげた」と題して、社会生活における時間間隔の話題が取り上げられた。

 人類の祖先は、もともとは日の出と日の入りのサイクルに合わせて自然に暮らしてきたが、その後、暦、時計が発明され、それによって時間に拘束された生活を強いられるようになった。井上毅先生(明石市立天文科学館)は、「社会の中で力を合わせて何かをやるとき、初めは場所を決めて集まるだけで作業ができたが、社会が高度に複雑になれば、約束ごととして時間が必要になった」と指摘しておられた。日本でも文明開化の到来とともに正確に時間を守る習慣が身についてきた。大正時代に入ると時間を守ろうという運動が起こり、1920年に「時展覧会」の開催に合わせて出版された冊子『最新変動 教材収録臨時号 誌上時展覧会』(南光社)には、時間がいかに貴重なものであるかを啓蒙するための事例が収録されていた。例えば1秒間に何ができるかについて、運針、女学生徒歩、電車、自転車などが比較されている。

 放送の中でも指摘されたように、時間を守るということは、いかに時間を短縮するかと連動している。時間が短いとそのぶん「つながり」が感じられる。手紙のやりとりに要する時間も、EメールやSNSを通じて瞬時に交わされるようになった。いっぽう、人間は産業の大きな営みの中のパーツに組み込まれてしまったという面もある。為末さんは「個人個人の体内時計に合わせた社会は実際幸せそう」と述べておられ、また上田泰己先生は「ずーっと進化の中でつくられてきたリズムを持った体と社会の時間の乖離が進んでいる。こうした近代化に伴ってリズムが崩れ、それを原因とした病気が増えている」と指摘された。

 ここからは私の感想・考察になるが、産業社会における時間の問題については、以前、内山節さんの、

時間についての十二章 哲学における時間の問題(2011年)

という御著書に言及したことがあった(2019年8月16日参照)。 隠居生活に入った私の場合、現役時代に比べて時間に拘束されることはかなり減ってきたが、だからといって時間を自由に使いこなしているわけではない。最近は、それよりも、死ぬまでに残された時間でどれだけのことができるのか、何をすればよいのか、という問題のほうが関心事となっている。

 社会生活の中で正確な時間が求められるのは、まずは、交通機関ではないかと思う。そう言えば、けさがたに見た夢は、駅の窓口で切符を購入するのが手間取って、1日に何本しか運行されていない列車に間に合わなくなりそうで焦った(焦ったところで目が覚めた)というような内容であった。また、渋滞などで授業開始時刻に遅刻しそうになるとか、荷造りに手間取ってツアーの出発時刻に間に合わずに焦るといった夢を見ることもある。私自身とって、これらの時間厳守がいかにストレス源になっていたのかが証拠づけられる。

 ネットで検索したところ、こちらに内山節さんの著書で論じられていた「関係的時間」についての考察があった。「関係的時間」とは、自分と自然や、自分と他者といった関係性の中で生まれる時間であり、直線的というよりも循環的、客観的というよりも主観的で、等速というよりも時にゆらぎ、時に流れをはやくする時間であるとされている。リンク先では、
長時間労働の是正ももちろん大切なのだけれど、その結果あまった時間で、またせかせかプライベートをすごすのでは、現代人のつらさは本質的には解決しないんじゃないか。
大切なのは、どれだけの長さの時間をプライベートにまわせるか、ではなく、「関係的時間」を一人ひとりが取り戻すことなんじゃないかと思う。
と考察されていたが、確かにそういう面があるように思う。といっても私自身が日々実践していることは、隠居生活であり、これは社会的な時間拘束から可能なかぎり逃れて、「じぶんの時間」を最大化することになっていて、「関係的時間」は殆ど意識していない。但し、「じぶんの時刻」を持つことはより多くの自由をもたらすものの、「じぶんの時間」は寿命という制約によって総量が決まっていて、どのように過ごしても日一日と減っていくものであり、そのことから逃れることは決してできない。

 あと、技術の進歩は必ずしも時間の拘束を強める方向には向かっていないように思う。
 例えば、かつては新聞のテレビ番組欄に目を通し、視たい番組があるとその開始時刻にテレビのスイッチを入れてその前に座っていなければならなかったが、今は、録画予約をするだけで視たい時に視られるようになっている。また映画やドラマなどは、オンデマンドでも提供されているので、多少のお金を払えば、好きな時に好きな作品を視聴できるようになった。

 また、以前は、人と待ち合わせる時には時間厳守に非常に気をつかったものだが、最近では親しい人との待ち合わせでは、スマホで現在地を報告し合いながら、両者それぞれの事情を調整しながら、時刻を気にせずに会うこともできる。

 以上のようなことを考えると、時間的な拘束が重要になるのは「生中継」ということになる。といっても、スポーツなどの中継は、結果を知らずに視る分には、録画でも変わらない。そう言えば3月14日に取り上げたNHK杯将棋トーナメントなども、毎回、楽しみに観ているが、実際の対局は何日も前に行われており、今年度の決勝戦などもすでに結果が分かっているはずだ。それでも、情報が何も入らなければ中継でも録画でも差は無い。大相撲や野球の中継も同様。戦争、大地震や台風などのように、自分と何らかの時間的関わりがある時に限って、「いま」という情報が重要になってくるように思う。

 次回に続く。