じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
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 昨日の日記に「沈む満月」の写真を掲載したが、4月17日の19時23分頃には、東の空から昇る大きな満月を眺めることができた。アメリカでは4月の満月を「ピンクムーン(Pink Moon/桃色月)」と呼ばれているという。なお、厳密に言うと、「満月」とは満月になる瞬間(月と太陽の黄経差が180度になる瞬間)であり、その瞬間を含む月の出から月入りまでの月を慣習上「満月」と呼んでいるようである。なので、今回の場合は、4月16日の夕方に昇り、4月17日の朝に沈んだ月が満月であり、この写真は「満月の翌日の月」ということになる。但し、「満月の瞬間を含む日」に見えている月を「満月」と呼ぶのであれば、写真は満月ということになる。

2022年4月18日(月)



【連載】チコちゃんに叱られる!「映画館はなぜ暗い」「鼻くその言い換え」

 昨日に続いて、4月15日に初回放送された表記の番組についての感想・考察。本日は、
  1. ミントを食べるとスースーして冷たく感じるのはなぜ?
  2. 日本中の温泉まんじゅうが茶色いのはなぜ?
  3. テレビは明るい所で見るのに映画館は暗いのはなぜ?
  4. 鼻くそを少し上品に言い換える言葉
という4つの話題のうち3.と4.について考察する。

 まず3.の「映画館が暗い理由」は、放送では「究極の黒を作るため」と説明された。
 最初の映画は1895年、フランスのリュミエール兄弟の手で作られたが、その初期の映画と現在の映画には、
  • 光をスクリーンに反射させる。
  • 観客を入れたビジネスとして上映する。
という共通点がある。そのため映画には、より大きな画面で一度にたくさんの人に見せる能力が求められた。画面を大きくすること自体は簡単だが、映写機の光源には限界があり、また強い光源を使うと熱でフィルムが溶けたり変形したりするという問題があった。そこで、弱い光でも大きく映し出せるように映画館を暗くした。
 いっぽう、(日本では)テレビは1953年に放送がスタート。もともと家庭用に開発されたため、画面の明るさが強くなるように開発された。
 しかし、現在の映画館では、フィルムではなく「デジタルシネマプロジェクター」が使われており、光源の性能も上がったため、テレビと同じ明るさで上映することは技術的には可能となっている。にもかかわらず映画館が暗いままであるのは、放送で正解とされた「究極の黒を生み出すため」であるという。
 「究極の黒」を作る最も簡単な方法は部屋を真っ暗にすることである。明るい部屋でこの究極の黒を再現しようとすると、モニター画面などには見ている人や部屋の景色が反射しまう。映画館のように「闇の中で見る」ことで始めて「究極の黒」が実現できるという。

 ここからは私の感想・考察になるが、まず、上記の映画の歴史のところで、これまで映画を初めて作ったのはエジソンだと思っていたが、エジソンが発明したのは1人でのぞき込んで楽しむキネトスコープであり、スクリーンに映写する方式の映画はリュミエール兄弟が最初に制作・公開したことに始まるということを知った。

 次に、光源の強さについては、私自身も、授業で教材を提示したり、学会の口頭発表のスライドを使う場合などで、実際に技術的な進歩を体感してきた。私が初めて学会発表した1976年頃は、図版などの提示は、青地に白色で文字やグラフを表したスライドを使用するのが一般的であった。その時代は光源に限界があり、学会会場は暗幕を下ろして真っ暗にしていた。その後OHPでの投映が一般的となり部屋の明るさはブラインド(日よけ)を下ろす程度で十分になった。現在主流のパワーポイント方式の場合も、プロジェクターの明るさの向上により、現在ではブラインドを下ろした程度で十分に見えるようになった。室内が暗い方が画面に集中しやすいというメリットがある反面、授業で多用すると、暗い部屋ではノートをとりにくいというデメリットもあった。
 個人的には、映画館を明るくしても構わないのではないかという気がするが、やはり真っ暗のほうがスクリーンの中の世界に没入できるというメリットはある。窓の外の景色が見えたり、外の騒音が入ってくるような部屋で映画を見ても集中できない。

 もう1つ、今回の放送では「究極の黒」が取り上げられていた。ウィキペディアでは「黒」は以下のように定義されているが、
黒(くろ)またはブラックは、色の一つで、無彩色。煤や墨のような色である。光が人間の可視領域における全帯域にわたりむらなく感得されないこと、またはそれに近い状態、ないしそのように人間の視覚に感じられる状態である
黒が色の1つであることについては少々疑問がある。もともと色というのは、可視光の組成の差によって生じる感覚質の差であると定義されているが、上記にあるように、黒は可視光の調整では作り出すことができない。要するに、色が無いことが黒と言うこともできる。と言うと、色が無いのは「透明」ではないか?と言われるかもしれないが、透明というのは「物体の反対側や内部にあるものが透けて見えること。」であって、透明そのものを見ることはできない。いっぽう、黒のほうは、明らかに、そこに見えているのである。また「無色」というのは一般には透明もしくは白色のことを言うが、白というのは本来は「色が無い」のではなく「色がありすぎる状態」のことを言うえきである。じっさい、いろんな色の光を混ぜれば白色になっていく。

 いずれせよ、黒色は可視光では作り出すことができない。部屋を真っ暗にするということでやっと実現できるところが興味深い。




 4.の「鼻くそ」は「ひだまりの縁側で…」で視聴者さんからのお便りとして紹介されたものであったが、確かに言い換えは難しい。ウィキペディアにも、
目糞(目やに)は眼脂(ガンシ)、耳糞(耳あか)は耳垢(ジコウ)、歯糞(歯かす)は歯垢(シコウ)と呼ぶのが正式な用語とされるが、鼻糞には正式な用語がない、もしくは「鼻糞」自体が正式な用語であるとされる。「糞」という言葉を嫌って、鼻垢(ビコウ)などを正式な用語にすべきではないかとする意見がある[誰によって?]。
と記されていた。中国語では鼻水を含めて「鼻涕」、英語では「Dried nasal mucus」と呼ばれるという。ちなみに英語版では、
Stefan Gates in his book Gastronaut discusses eating dried nasal mucus, and says that 44% of people he questioned said they had eaten their own dried nasal mucus in adulthood and said they liked it.As mucus filters airborne contaminants, eating it could be thought to be unhealthy; Gates comments that "our body has been built to consume snot", because the nasal mucus is normally swallowed after being moved inside by the motion of the cilia. Friedrich Bischinger, a lung specialist at Privatklinik Hochrum in Innsbruck, says that nose-picking and eating could actually be beneficial for the immune system.
【DeepLによる翻訳】 Stefan Gates氏は、著書『Gastronaut』の中で、乾燥した鼻粘液を食べることについて述べており、彼が質問した人の44%が、成人してから自分で乾燥した鼻粘液を食べたことがあり、好きだと答えたという。粘液は空気中の汚染物質をろ過するので、それを食べることは不健康だと考えられる。Gates氏は、鼻粘液は通常は繊毛運動によって内部に移動してから飲み込まれるので「我々の体は鼻水を消費するよう作られてきたのです」とコメントしている。インスブルックにあるPrivatklinik Hochrumの肺の専門家であるFriedrich Bischinger氏は、鼻をほじって食べることは、実際には免疫系に有益である可能性があると述べている。
という興味深い記事があった。
 このほか何かの哲学か心理学の本で、

●ウンチ、シッコなどはいずれも汚いものとして嫌われるが、いずれも体の中から出たものであって、体の中にある時は汚いものだとは感じない。そのあたりに、自己とは何か?についての重要なヒントがある

というような記述を見かけたことがあった。鼻くそや鼻水や痰も同様である。鼻水は汚いものとされるのに、鼻の中から喉に流れ込む鼻水を呑み込むこと自体は不衛生だとは思われないところが興味深い。