じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 5月5日は、帰省先でのウォーキングコースを変更し、この時期しか見られない「到津鯉のぼりまつり」を見に行った。板櫃川の上に多数の鯉のぼりが泳いでいて、なかなか壮観であった。

2022年5月06日(金)



【小さな話題】「じぶん更新日記」執筆開始25周年(1)

 このWeb日記の執筆が2022年5月6日をもって25周年を迎えた。

 昨年5月6日の日記で、
毎年5月6日付けの日記では、似たようなことばかり書いているのだが、今年は少し違う。このWeb日記のタイトルでもある「じぶん更新」という初心に立ち返り、「生涯じぶん更新」をめざす、というように方針転換を決めたためである。
と記した。また、昨年5月8日の日記では、加齢に伴う「じぶん更新」の中身の変化についても言及した。それから1年が経過したが、日記の内容はほぼ執筆方針通りになっているように思う。

 最近の日記の内容は、大部分がテレビ番組、それも主として科学・教養番組や雑学系番組の感想となっているが、これは、主として、
  1. 読書に興味が無い。
  2. これまで新たな体験として重要な意味を持っていた旅行(但し、一般的な都市観光ではなく、辺境地域やトレッキング)が、新型コロナの影響で全くできなくなってしまった。
という2つの理由によるものであり、今後もこの傾向は変わらないものと思う。

 このうち1.については、中学・高校時代はけっこうたくさん本を読んでいたが、その後は読書嫌いになりもう何十年もその傾向が続いている。現役時代はもちろん、専門書をできるだけ多く読む必要があったが、それ以外の本、小説とか一般向け教養書などには殆ど興味が持てなくなってしまった。もともと私は、複雑な人間関係とか他人の心情を読み取るのが苦手であり、現実の人間関係でも煩わしく感じることが多いのに、それに加えて小説の中の登場人物がどうしたこうしたということまで気を配るのは面倒でたまらないというところがある。なので、ドラマも殆ど視ない(←稀にハマってしまうことはあるが)。
 読書には興味が無いものの、科学・教養番組を視聴し、それらに関連するコンテンツをネット上で探し出して目を通すというだけでも、隠居人レベルでは充分に「じぶん更新」ができるものである。Web日記でテレビ番組の話題を取り上げる場合、放送内容をあるメモ書きして要約する必要が出てくるが、この作業はそれなりに認知症予防に役立っているように思われる。

 2.については、この先、加齢に伴う運動能力の低下などを考えると、海外旅行の再開は諦めざるを得ないように思われる。また新型コロナが収束しても、旅行先で体調を崩したりコロナ以外の病気に感染するリスクはますます増えてくる。また、そもそも、「死ぬまでに一度は行ってみたいところ」は、ほぼ行き尽くしており、この先どこかへ出かけても、ここに来て本当に良かったというような満足感・達成感は得られないのではないかと思う。
 2.に関して今後考えているのは、RPG形式(但し戦闘場面は不要)で、仮想空間を旅することである。もっとも、いったんそういう世界にハマってしまうと、一日中部屋に籠もりっきりになってしまって、健康寿命を縮める恐れがある。もっとも、寝たきり生活に近い状態になった時には、仮想空間の旅も現実世界での旅とそんなに変わらないように思う。

 話題が変わるが、4月20日に、NHK-BSPで、『素晴らしき哉、人生!』(1946年)という映画を放送していた。窮地に立たされ、自分は死ぬしかない、自分がいない方がみんな幸せになっただろうと考えるに到った主人公ジョージに対して、守護天使のクラレンスが、もしジョージが生まれていなかったら今の世界はこんなに酷いものになるということを見せて諭すといった道徳的な内容であったが、確かに、どんな人も、今の世界の有り様に何らかの貢献をしていることは確かだとは思う。じっさい、今回は孫たちも帰省してきたので、レゴやパズルで一緒に遊んだり、動物園や公園に行ったりしたが、もし私が生まれていなかったら、その子どもも存在せず、そうなれば孫たちの笑顔も見られないということになるから、現実世界に新しい生命を作ったという、この1つをとっても、私自身はそれなりの役割を果たしてきたと言うことはできるかもしれないとは思う。
 もっとも、「自分が生まれてきたことによって成り立っている現実世界」に比べて「自分が生まれなかった場合にそうなったであろうという世界」のほうが良いか悪いかは何とも言えない。自分が存在しなかった時は、妻は別の男と結婚して別の子どもを産んでいたかもしれない。このほか、自分が存在していなければ、私が大学入試に合格したとばっちりで不合格になった人が代わりに入学し、生命科学につながる大発見をしていた可能性もある。
 なので、『素晴らしき哉、人生!』(1946年)の展開は、必ずしも自分の存在を意義づけるものではない。まして、過去に何らかの貢献をしていたからといって、今の隠居人的生活を肯定するものにもならない。「いま、ここ」での生活は、過去にとらわれず、「いま、ここ」の中でしか考えることはできない。

 次回に続く。