じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 「接写で楽しむ雑草の花」。今回はキキョウソウ。近縁種に「ヒナギキョウソウ」(昨日掲載のヒナギキョウとは別種)があるそうだが、葉が茎を抱いているように見えるので、今回掲載の写真はキキョウソウであると推定。


2021年5月8日(土)



【小さな話題】「じぶん更新日記」執筆開始24周年(3)「じぶん更新」の意味

 毎年、5月6日〜5月8日頃には執筆開始○○周年というタイトルのもとに、このWeb日記関連の記事を書いている。昨年5月8日の日記にも記したように、その構成は、
  1. ○○周年を迎えたことについての所感
  2. 「ご長寿日記」読み日記
  3. 今後の執筆方針
という三部構成になることが多いのだが、今年は、5月6日のところで、“「じぶん持続」から「生涯じぶん更新」へ”という執筆方針の変更をすでに表明したので、ここでは、「じぶん更新」の意味についてもう少し、考えを進めてみたいと思う。

 まず、5月6日にも述べたように、「じぶん」を更新する方法としては、
  1. 日々努力を重ね、自分の能力、体力、人格等を高めていくこと。
  2. 新しい体験を重ね、自分がかかわる世界を拡大していくこと。
  3. 新しい知識を吸収し、対象への理解を深めていくこと。
などが考えられる。もっとも、「更新」は必ずしも進歩、改善、発展を意味するわけではない。例えば、加齢により、
  • 身体機能が不自由になると、今まで住んでいた環境世界に新たな障壁や危険が現れるようになる(坂道、階段など)。
  • 視力が衰えると、音声に頼るようになる。逆に聴力が衰えると、世界が静寂になる。
  • 認知機能が衰えると、環境世界の一部が融合して見えるようになる(?)
  • 記憶が衰えると、あらゆる体験が初めてであるように感じる(?)
といったような変化が生じるかもしれないが、これも、「じぶん」の高齢者バージョンへの更新と言えるかもしれない。

 2020年12月6日の日記の終わりのところに
私は、この世界が虚構であるとは思わないが、人間はこの世界にそっくりそのまま接しているわけではない。この世界に働きかけ、言語反応を形成し、さらに関係反応を派生していくなかで、この世界についての言語的構成物を作り上げ、その中で生きている。また、この世界に接しているというのはあくまで「いま、ここ」の瞬間に過ぎないのだが、じっさいには、それに過去の思い出や将来の見通しといったその人が独自に派生させた反応を重ね合わせて現実に接している。そういう意味での「世界」はもはや客観世界ではありえない。
と書いたように、生活の基本は「いま、ここ」であるのだが、その世界への接し方は「じぶんを更新する」ことで日々変わっていく。過去の出来事に囚われたり、将来の目標にがんじがらめにされたりしてはならないが、適度の重ね合わせは、私にとっては心地よいものになっている。

 そういえば、いつだったか、NHKのトーク番組で、ある女優さんが、駐車場の交通整理のような仕事に憧れるというような話をしておられた。駐車場に次々と入ってくる車を適切な空きスペースに誘導するという仕事は、まさに「いま、ここ」と一体化した生きざまであり、俳優のように別の人物を演じる仕事を続けておられる方にとっては、あこがれになるのかもしれないと思った。もっとも私のような者にとっては、駐車場で仕事をしている時間というのは、大型の機械の部品になっているような、「じぶん」が完全に奪われた時間のように思えてならない。人間は、起きている時間の47%もの時間、マインド・ワンダリング(心の迷走)に浸っているという話を聴いたことがあるが【A Wandering Mind Is an Unhappy Mind. (Killingsworth and Glibert,2010)参照】、若者はそれでは困るとしても、高齢者の場合は、ある程度は、自由に物思いにふけっても良いような気がする。但し、それが、前向きで、現実に根ざした物思いとなるためには、やはり、適切な「じぶん更新」が必要ではないかと思われる。

 ま、いろいろ書いてはみたものの、別段、そんなに大それたことを目ざしているわけではない。日常生活の中での新たな発見、テレビ番組で仕入れた新しい知見などに自分自身の感想や考察を付け加えて書き記していくことが、当面の「じぶん更新」になるかと思う。【「当面」というのは、健康寿命が尽きるまでの時期。その先がどうなるかは、時期やその時の状態が予測できないので、何とも言えない。もちろんそれなりの備えはしているが。】