Copyright(C)長谷川芳典 |
|
「接写で楽しむ雑草の花」。今回はキキョウソウ。近縁種に「ヒナギキョウソウ」(昨日掲載のヒナギキョウとは別種)があるそうだが、葉が茎を抱いているように見えるので、今回掲載の写真はキキョウソウであると推定。 |
【小さな話題】「じぶん更新日記」執筆開始24周年(3)「じぶん更新」の意味 毎年、5月6日〜5月8日頃には執筆開始○○周年というタイトルのもとに、このWeb日記関連の記事を書いている。昨年5月8日の日記にも記したように、その構成は、
まず、5月6日にも述べたように、「じぶん」を更新する方法としては、
2020年12月6日の日記の終わりのところに 私は、この世界が虚構であるとは思わないが、人間はこの世界にそっくりそのまま接しているわけではない。この世界に働きかけ、言語反応を形成し、さらに関係反応を派生していくなかで、この世界についての言語的構成物を作り上げ、その中で生きている。また、この世界に接しているというのはあくまで「いま、ここ」の瞬間に過ぎないのだが、じっさいには、それに過去の思い出や将来の見通しといったその人が独自に派生させた反応を重ね合わせて現実に接している。そういう意味での「世界」はもはや客観世界ではありえない。と書いたように、生活の基本は「いま、ここ」であるのだが、その世界への接し方は「じぶんを更新する」ことで日々変わっていく。過去の出来事に囚われたり、将来の目標にがんじがらめにされたりしてはならないが、適度の重ね合わせは、私にとっては心地よいものになっている。 そういえば、いつだったか、NHKのトーク番組で、ある女優さんが、駐車場の交通整理のような仕事に憧れるというような話をしておられた。駐車場に次々と入ってくる車を適切な空きスペースに誘導するという仕事は、まさに「いま、ここ」と一体化した生きざまであり、俳優のように別の人物を演じる仕事を続けておられる方にとっては、あこがれになるのかもしれないと思った。もっとも私のような者にとっては、駐車場で仕事をしている時間というのは、大型の機械の部品になっているような、「じぶん」が完全に奪われた時間のように思えてならない。人間は、起きている時間の47%もの時間、マインド・ワンダリング(心の迷走)に浸っているという話を聴いたことがあるが【A Wandering Mind Is an Unhappy Mind. (Killingsworth and Glibert,2010)参照】、若者はそれでは困るとしても、高齢者の場合は、ある程度は、自由に物思いにふけっても良いような気がする。但し、それが、前向きで、現実に根ざした物思いとなるためには、やはり、適切な「じぶん更新」が必要ではないかと思われる。 ま、いろいろ書いてはみたものの、別段、そんなに大それたことを目ざしているわけではない。日常生活の中での新たな発見、テレビ番組で仕入れた新しい知見などに自分自身の感想や考察を付け加えて書き記していくことが、当面の「じぶん更新」になるかと思う。【「当面」というのは、健康寿命が尽きるまでの時期。その先がどうなるかは、時期やその時の状態が予測できないので、何とも言えない。もちろんそれなりの備えはしているが。】 |