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半田山植物園内のポポーの葉っぱに止まっているアブを見つけた。よく見ると、蜂(たぶんアシナガバチ)を脚に掴んでおり、ネットで検索したところシオヤアブ(メス)であることが分かった。昆虫界最強クラスの戦闘力を持つとも言われている。 |
【連載】チコちゃんに叱られる! 「急がば回れ」の由来/「そば湯」の効能 昨日に続いて、7月15日に初回放送された表記の番組についての感想・考察。本日は、
まず2.だが、正解は「琵琶湖を回れ」であると解説された。江戸時代、京都・誓願寺の僧侶、安楽庵策伝が語った話を集めた『醒睡笑』の中に、 ●武士(もののふ)のやばせのわたりちかくとも いそがばまわれ瀬田の長はし と記されている。ここで「やばせ」とは、草津市にある矢橋の船着き場のことであり、「瀬田の長はし」とは大津市にある瀬田の唐橋をさす。東海道や中山道から京都に向かう際、矢橋から船で渡ったほうが速いけれども、琵琶湖は湖が荒れやすいので、急いでいる時こそ、瀬田の唐橋を渡ったほうが安全で結果的に早く着くという意味。この地域は東海道や中山道を行き交う旅人で賑わっており、この人たちを介してこの言い伝えが全国に広まったという。 以上が放送内容であったが、上掲の和歌は確かに『醒睡笑』に記されているが、ネットで検索したところ、作者は、平安時代の歌人源俊頼か、室町時代の連歌師宗長(そうちょう)が詠んだとされているようであった。『醒睡笑』自体は、宗長の歌として引用しているらしい。 あと、安楽庵策伝は1554年生まれ、1642年没となっていて、また醒睡笑は1623年に完成したようである。放送では東海道や中山道が合流した草津のあたりは旅人で賑わっていたと説明されていたが、ウィキペディアによると、東海道が完成したのは1624年、中山道は1694年であるというから、『醒睡笑』の記述が旅人を介して全国に広まったというのは少しズレがあるように思う。おそらく、『醒睡笑』の記述が後の咄本や落語のネタとして参照され、それを通じて広まっていったのではないかと推察される。 なお、「急がば回れ」の反対の意味をもつ格言としては、ネット上では「鉄は熱いうちに打て」や「先んずれば人を制す」が挙げられているが、これらは必ずしも相容れないものではない。「先んずれば人を制す」は必ずしもリスクを取れと言っているのではない。そのような競争状況にあっても、先んずる確実な方法は「急がば回れ」であるべきだろう。 最後の4.の「そば湯」の件だが、放送では「昔の長野県は食べ物をとても大切にしたから」と説明された。放送によれば蕎麦の歴史には諸説あるが、そば湯を飲む文化は信濃から江戸に伝わったとされている。江戸時代に書かれた『蕎麦全書』(1751年)には、信濃でそば湯を飲む文化があったと記されている。蕎麦は本来消化しにくい食べ物であり、蕎麦の実のうち、殻(外皮)は硬くてアクが強く、アマ皮は唾液では殆ど分解されず、その中の胚乳はでんぷんで構成されている。そこで東京などでは予め殻を取り除いた状態から挽かれるため白い粉になる。いっぽう長野県では伝統的に、殻や甘皮もギリギリまで挽き混むため、黒っぽい粉になる(〜田舎そば)。この田舎そばを食べたあとで暖かいそば湯を飲めば、おなかの調子を整えることができる。消化酵素が最も働きやすいのは37℃前後であるため、冷たい蕎麦を食べたあとで暖かいそば湯を飲むとその効果が期待できる。 長野県で消化の悪い蕎麦を食べるようになった理由としては、海に面していないため海産物が摂りにくいこと、標高が高くで米や小麦が十分にとれない地域が多かったため、伝統的に食べ物を大切にする文化が根付いていたと説明された。じっさい、同じ蕎麦の実から作ることのできる分量は白い蕎麦に比べると黒い蕎麦のほうが(目分量で)4/3倍弱)で多くなる。さらに、黒い蕎麦には、筋肉や内臓の基になるタンパク質を多く含んでおり、長野県では、イナゴ、鯉料理などを含めて、タンパク質を摂取していたと推測された。 以上が放送内容であったが、ウィキペディアにはもう少し詳細な解説があり、
岡山県内でも、高級そば店ではそば湯が提供されているようだが、一般の丼物屋や生協食堂では蕎麦もうどんも同じ鍋で湯がいており、当然そば湯を飲むことはできない。 あと、「黒い蕎麦」と言っても、100%の白いそば粉に後から着色目的で殻成分を加えているものもあれば、そばの比率の少ない安物の乾麺もあるので、一概に色だけで判断することは難しいように思う。 |