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ウォーキングコース沿いで見かけたヒイラギモクセイ。ギンモクセイとともに、キンモクセイの花が終わった頃から見頃となる。ヒイラギモクセイ、ギンモクセイ、ヒイラギは葉っぱの形で区別できると思っていたが、昨年12月1日の日記に記したように、ヒイラギは老樹になると葉の棘が少なくなり縁が丸くなるため、ギンモクセイのように見えてしまうことがある。 |
【連載】チコちゃんに叱られる!「国宝とは?」/フェノロサと町田久成 昨日に続いて、10月28日に初回放送された表記の番組についての感想・考察。本日は、
放送によれば、そもそも「『国宝』は明治維新の暴走を止めた制度」であると説明された。「有形文化財」の中で重要なものは「重要文化財」、そして特に価値が高いものが「国宝」に指定されている。「国宝」という制度が生まれたきっかけは、明治維新のさなか、明治元年に出された神仏分離令であった。その法令には「仏具などは早々に取り除くこと」との記載があり、神社にある仏像を取り除かせたり、僧侶は神主になることを進めたりして、神社から仏教の要素を取り除こうとした。しかしこの法令が拡大解釈され、暴走する人々が現れ、仏像や建物が壊されるという事態が起こった。その有名な例は興福寺の阿修羅像で、腕が欠けて無残な姿になった。こうした廃仏毀釈を恐れて寺を離れてしまう僧侶もいたり、貴重な文化財が安く売られることになった。そうした悲惨な状況のなか、貴重な文化財を保護しなければダメだという人が現れた。その人は、アーネスト・フランシスコ・フェノロサであった。以下、放送内容を箇条書きにまとめておく【あくまで、長谷川の聞き取りによる】。
そのことで思い出したが、少し前の10月19日に初回放送された、 ●NHK「英雄たちの選択:日本の宝を守れ!町田久成・博物館創設への挑戦 」 では、町田久成の話題が取り上げられていた。町田はロンドンの大英博物館を実際に見学した時の体験をもとに日本でも国立の博物館を建設する必要を実感し、大久保利通の人脈を頼って実現にこぎ着けたが、大久保暗殺や資金難から、建設工事は一時中断してしまう。しかし規模縮小といった妥協はせずに、東京帝室博物館(後の東京国立博物館)を実現し初代館長に就任した【しかしその後半年で辞職し、出家したというエピソードがなかなか興味深い】。 町田久成(1838-1897)とフェノロサ(1853-1908)との接点については、ウィキペディアの町田久成の項目の中に、 ●1885年、3月元老院議官となる。岡倉天心、フェノロサ、ビゲローが町田宅で受戒。 という記述があるのみで、詳しいことは分からなかった。フェノロサが文部省図画調査会委員に任命され、同年には岡倉天心らに同行して近畿地方の古社寺宝物調査を行ったのは1884年であるが、1872年には東京国立博物館が創設されていた。また、1889年に帝室博物館が帝国博物館に改称された当時、帝国博物館美術部長は明治時代の美術界の理論的指導者であった岡倉覚三(天心)であり、アメリカから来た哲学者・美術史家のアーネスト・フェノロサも美術部理事を務めていたと記載されている。いっぽう、町田久成のほうは1889年にはすでに博物館長は辞職していて、翌1890年には園城寺子院・光浄院住職となっている。 ウィキペディアのフェノロサの評価の項目には 廃仏毀釈を経て、また西洋文化崇拝の時代風潮の中で見捨てられていた日本美術を高く評価し、研究を進め、広く紹介した点は日本美術にとっての恩人ともいえ、高く評価されている。フェノロサが参加した古社寺の宝物調査は、文化財保護法の前身である古社寺保存法の制定(1897年)への道を開いたものであり、東京藝術大学の前身の1つである東京美術学校の開校にも関わるなど、明治時代における日本の美術研究、美術教育、伝統美術の振興、文化財保護行政などにフェノロサの果たした役割は大きい。また「国宝」(national treasures)の概念は彼が考えた。と記されており、今回の「国宝」の概念については確かにフェノロサの貢献が大きいと思われるが、放送の中で町田久成の名前が一度も出てこなかったことについては、納得できないところがある。 放送ではそのあと、国宝に指定された場合にいろいろな制約を受けることが紹介された。
なお、京都にある国宝というと金閣と銀閣が思い浮かぶが、金閣は1950年に放火により全焼して再建されたものであるゆえ、国宝には指定されていない(世界文化遺産には指定されている。) 次回に続く。 |