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【連載】チコちゃんに叱られる!「拍手をするのは体に触りたいけど手が届かないから」という胡散臭い「説明」 10月28日に初回放送された表記の番組についての感想・考察。この回は、
さて、1.の拍手の理由だが、放送では「体に触りたいけど手が届かないから」と説明された。人間をはじめ動物の行動を研究している小林朋道先生(公立鳥取環境大学環境学部)によれば【長谷川の聞き取りのため不確かな部分あり】、
ここからは私の感想・考察になるが、多くの動物たちが体をすり寄せるような行動をとることで友好的な関係を維持していることは小林先生のご指摘の通りである。また人間では、握手や抱擁のように体を触れ合うような挨拶をしたり、子どもの頭を撫でていい子いい子してあげることもある【但し、これには文化的な差違があり、日本人は普通は抱擁しない。また民族によっては、子どもの頭を撫でることがマナー違反になる場合もある】。 しかし、今回取り上げられた「拍手」が、そうした接触行為の代替であるという説は極めて疑わしい。また、おそらく放送時間の制約のための編集の結果だとは思うが、納得できない点がいくつかあった。ざっと挙げてみると以下のようになる。
次に2.の件だが、放送では雄ライオンの低いうなり声と、小鳥の「ジージージー」という高い鳴き声が比較され、「高い音は体が小さい、弱い、危害を加えない」という信号になると説明されていたが、小鳥たちは別段、自分たちが弱くて危害を加えない存在であることをアピールするために鳴いているわけではない。シジュウカラのように多様な鳴き声を発する鳥もいるし、ウグイスのように縄張りの主張で鳴く鳥もいる。音の高さに対応した信号だけで区別されるとは限らない。 なお、人間の発話で高い声と低い声が与える印象の違いや効果についてはチコちゃんの番組の「なんで女性は電話に出ると声が高くなる?(2018年10月12日放送)」でも考察したことがある。人間の声に関して「体が小さい=力が弱い、危害を加えない、かわいらしい、無害」という印象を与えること自体は定説になっているようである。しかしそのことを認めたとしても、拍手が高い音だから同じ効果を持つというのはコジツケに過ぎないように思う。実際、応援団のドンドンドンという太鼓の音などは高い音には聞こえない。 最後の3.であるが、もし拍手が本能的な行為として備わっているのであれば、つまり、笑顔や泣き顔と同じように生まれつき備わった行為であるとするならば、そういう行為は人類共通であり、時代にかかわらず見られるはずであろう。しかし、実際には、拍手をするという行為は全ての人類が時代を超えて行っている行為とは言いがたい。ウィキペディアによれば、 明治以前の日本には大勢の観衆が少数の人に拍手で反応するといった習慣はなく、雅楽、能(猿楽)、狂言、歌舞伎などの観客は拍手しなかった。明治になり西洋人が音楽会や観劇のあと「マナー」として拍手しているのに倣い、拍手の習慣が広まったものと推測される。1906年(明治39年)に発表された夏目漱石の小説『坊っちゃん』には「(坊ちゃんが)教場へ出ると生徒は拍手をもってむかえた」との記述がある。という記述があり、少なくとも日本で拍手という行為が意味をもつようになったのは明治以降のことである。このように文化的な流れに依存して慣習化した行為を、動物の鳴き声の高い音、低い音と同様の本能的な行為のようなものにこじつけて「説明」するのは間違っていると思う。 では、なぜ拍手をするのか?ということだが、一番の理由は大勢の集まりの中で一体感を示すため(=周りの人と同じ行動をとり、大きな音が聞こえてくることで強化されている)と考えるのが妥当なところであろう。なので、誰かを称えるという場合だけでなく、全員で拍手をする場合もある。 もちろんその行為の般化として、何か嬉しいことがあった時とか、満足した結果が得られた時には、人が集まっていないところでも拍手する場合がある。例えば、テレビで野球中継を観ていて、自分の応援する選手がホームランを打った時に拍手をするという場合など。また、以前、皆既日食見物に行った時のことだが、皆既食が終わって太陽が再び現れた時に拍手をした人が居たことがあった。皆既日食は自然現象なので拍手をしたところでどうなるというものでもないが、おそらくその人は、コンサート会場で「スゴイ!」と感動した時に送る拍手の行動の般化として、皆既日食現象に拍手を送ったのではないかと推察される。 次回に続く。 |