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2月25日の夕刻はよく晴れて、西の空に月齢5.1の月と、ますます接近する木星と金星の様子を眺めることができた【月は明るすぎて輪郭がぼやけている】。
なおこの日の22時5分には月が天王星の北1°16′まで接近するという。双眼鏡で月の左側(南側)のあたりを探索したところ、それらしき小さな星がいくつか見つかったが、どれが天王星なのかは同定できなかった。昨年11月8日の皆既月食の時のように、天王星の位置がはっきり分かっていないと、これが天王星であると確信することができないのが残念。 |
【連載】チコちゃんに叱られる! 「関西弁」「羽田空港」「山って何」 2月24日(金)に初回放送された表記の番組についての感想・考察。この日は、
まず1.であるが、疑問の趣旨は「他の地域に移り住むと出身地の方言をあまり喋らなくなる人が多いが、関西出身の人はどこに移り住んでも関西弁を喋るのはなぜ?」ということであるようだ。 もっとも、そもそもどのくらいの関西人が関西弁を喋り続けているのかは分からないように思う。大学・大学院の時に同学年だった男は大阪で生まれ育ったにもかかわらず「共通語」を喋っていた。他にも関西出身者で関西弁を喋らない人は何人も知っている。「関西人はどこでも関西弁をしゃべる」と印象づけられるのは、この日のゲストの鶴瓶さんのように、全国放送でも関西弁を喋り続ける人が目立っていて、それを耳にした関東人が「すべての関西人はどこでも関西弁を喋っている」と印象づけられているだけなのかもしれない。 ちなみに、一口に関西弁といっても、特有の会話表現を使うかどうかと、単語のアクセント(イントネーション)の特徴に表れる場合の2通りがある。前者は「○○しはった」「あかん」「おおきに」「よう○○せん」「いやや」などであり、関東人に対してこういった表現を使うかどうかは関西人の中でも多様であるように思われる。鶴瓶さんのように全国どこへ行っても使う人もいるので関西人はみんなそうなのかと印象づけられてしまうが、実際にはそこまでは徹底させず、その地域の標準的な挨拶言葉に順応させる場合が多いように思う。 いっぽう、単語レベルのアクセント(イントネーション)は、いったん身につけたあとはそう簡単に変わるものではない。音声入力でテキスト化された文章は共通語であっても、個々の単語のアクセントは関西弁のままという場合はあるし、また関西人がテキストを読み上げる時には単語レベルのアクセントは関西風になる。例えば、地名の「京橋」や「日本橋」は東京と大阪では全然発音が異なるし、「おはよう」や「こんにちは」もアクセントの位置が異なっている。こうした単語レベルの違いはそう簡単には切り替えることができない。ちなみに私自身は、高校卒業までは東京、そのあと京都で15年ほど暮らしていたが、単語レベルでのアクセントは東京弁のままであった【但し、大学入学後によく使うようになった一部の単語は関西弁】。 ということで、単語レベルのアクセントの特徴ということから言えば「関西人はどこでも関西弁」、「関東人はどこでも東京弁」、「九州人はどこでも九州弁」ということになり、別段、関西人だけが方言に固執しているわけではない、そのように錯覚するのは、関西人の人口が他の地方に比べて多いためではないかと推測される。 元の話題に戻るが、放送では、「先生が関西弁だから」と説明された。中井精一先生(同志社女子大)によれば、近畿方言を話す人は2000万人以上で日本一話されている方言。学校で共通語のアクセントを教えていないから関西弁しか話せない。このほか、は共通語を身につけさせてほしいという地域からの要請もないこと、関西人は自分たちを地方と思わず関西弁に誇りを持っていること、お笑い芸人の影響で関西弁にいい印象を持つ人が多くなったことなどが挙げられていたが、「先生が関西弁だから」というのが主要な理由であるなら、先生が九州弁であればどこでも九州弁を、また先生が名古屋弁であればどこでも名古屋弁を話す人がもっと多いはず。そうならないのは、九州人や名古屋人が相対的に少ないため、それを使うことに徹すると集団会話場面で仲間はずれにされてしまう恐れが大きいためと考えられる。その点、関西人はどこへ行っても一定比率で存在するため東京弁が多数派であっても孤立するほどではない。以前、東大の本郷キャンパスの生協に立ち寄った時、入口付近で学生たちが関西弁で会話をしていた。あれっ?ここは京大構内か?と一瞬意外な印象を受けたが、東大生の中にも灘高など関西出身者が一定比率含まれていることを思えば、そういうこともあるのだろうと納得できた。 次の2.の羽田に空港がある理由については、放送では「飛べない男たちが夢を見たから」と説明され、かつて国産初の飛行機を飛ばそうとした玉井兄弟のエピソートが紹介された。玉井兄弟は1916年8月に初の公開飛行を行ったが失敗。同じ年の10月には、相羽有の支援により現在の羽田空港の近くの干潟に日本飛行学校が開設され、初の飛行に成功した。しかし1917年5月の帝都訪問飛行として東京の空を飛んだ時、3回目の周回が終わる直前に翼が折れて墜落し、玉井兄弟の兄の清太郎は死亡。また同じ年の10月の東京湾台風で飛行学校所有の飛行機は失われた。その後1923年の関東大震災により陸上輸送から航空輸送への転換の機運が生じ、もと飛行学校があった場所に民間専用の空港「東京飛行場」が開設された。第一便は中国・大連便であったが乗客はゼロ、乗っていたのは6000匹のマツムシとスズムシであったという。現在羽田空港は多い日で600便が発着する世界有数の空港になった。 世界各地の空港における旅客数は、コロナ禍で大きく変動しているが、国際線旅客数だけに限ればドバイが最多になっているようだ。ドバイの空港は昨年9月に乗り継ぎで利用したことがあるが、とにかく規模が大きく、搭乗口の徒歩移動だけで何十分もかかるし、店は24時間開いていて人通りが絶えることもなかった。羽田空港は国内線が主体なので比較は難しいが、旅客数だけの比較では世界第4位か5位のあたりにランクされているようだ。 最後の3.の「山ってなに?」は、地理学あるいは地学上の「山」の定義にまつわる話題かと思ったが、実際は山がどうできるかについての初歩的な説明であり「おできかしわ」に喩えられた。鈴木毅彦先生(東京都立大)が推奨する日本最高の「おでき名山」は開聞岳、「おできとしわのコラボ名山」は富士山北側にある御坂山地であった。なお開聞岳は学生時代に一度だけ登ったことがあるが、頂上は火口が無くて景色はイマイチ、また登山道の途中にヘビがたくさんいて早足で下山するとうっかり踏んでしまいそうになった。リンク先の写真にもあるように、下から眺める開聞岳はなかなかの絶景である。 ちなみに日本には1万6000以上の山があるが、「山」の定義は明確ではなく、地図に載っている山は、「古くから地域で親しまれている」、「自治体からの申請で記載」などで表記されるという。たまにTVのバラエティ番組などで、「日本一低い山」とか、「校歌に歌われているがあまり知られていない山」などが紹介されることがある。 なお放送では山の成り立ちを「おできか皺」としていたが、尖った岩山の中には、台地全体が隆起したあとに柔らかい地質部分が流失してできあがったものも少なくない。しいて言えば「大地の骨」のようなものか。 |