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5月1日の北九州は晴れの一日となった。この日のウォーキングでは、昨年に続いて、到津鯉のぼりまつり(板櫃川鯉のぼりまつり)を見物した。詳細は楽天版参照。 |
【連載】ヒューマニエンス『アート』(4)「AIとアート」、「青色は好まれ黄土色は嫌われる?」 4月29日に続いて、3月28日に初回放送された、NHK『ヒューマニエンス』、 ●“アート” 壮大な“嘘”が教えてくれるもの についてのメモと感想。 放送では「美と醜」に続いて、「AIとアート」の話題が取り上げられた。このWeb日記でも何度も取り上げているように最近の生成AIの技術は、日進月歩の進歩をとげている。放送ではまず、AIが作成した人物画にオークションで4900万円もの値段がついたというエピソードが紹介された。 続いて、「芸術的な猫」と入力すると、即座にそれに即した画像を作り出してくれる画像生成AIが紹介された。こうしたAIの多くは、「猫」、「芸術的」といったキーワードで、ネット空間に無数に存在する画像データを読み込みそれを基に画像を描き出す『データベース型』となっている、 AIアートを研究している内藤智之さん(大阪大学)は「現時点では【AIの描いた作品が】芸術的と言えるかどうかは未確定。『芸術作品』というキーワードを入れた時には、多くの人がこれがアートだと思う平均的なものがたくさん出てくる。誰かの100点ではなく、全員の80点を狙いにいく」とコメントされた。続くナレーションではさらに、 ネットで挙げられている画像から平均イメージを出力する現状のAIでは、突出した芸術性を持つ作品を生み出すのは難しい。突出した芸術性を持つには、何が好きで何が嫌いかを判断する基準、つまり審美眼が必要。ところがこの審美眼は、ヒトは持ち得てもAIは持つことができないと考えられている。と解説された。 放送では上掲の判断材料の1つとして『色』が取り上げられ、
前回も引用させていただいたが、このことに関して猪子寿之さんは、「結果的に歴史に残るようなアートというのは、美を拡張した作品。それは今「美」ではないものを「美」にしてしまう行為」というコメントがあった。要するに、AIが過去データを基に学習&生成するという方式からは新しい芸術は生み出されないというご指摘であった。 猪子寿之さんは具体的な例として、『雨』が線のように描かれたこと、つまりああいううふうに見え始めたのは実は最近かもしれないと指摘された。1877年の『パリの通り、雨』では、濡れた石畳と傘は描かれているが、雨自体は描かれていない。いっぽう1857年の『大はしあたけの夕立』では雨が線で描かれており、大げさな言い方をすれば、こういう絵があったから今のように雨が見えてきた、と論じられた。 ここからは私の感想・考察になるが、まず、私自身は、AIは新しい芸術を生み出せないということはないと思う。例えば将棋AIも、過去の膨大な数の棋譜を学習しているが、その中からプロ棋士が思いつかなかったような新手を生成している。将棋の場合は1つの手の有効性は最終的には勝ち負けという結果によって学習されていく。内藤さんの研究にもあるように、何らかの価値基準をもとに選別を重ねていけば、革命的な芸術が生み出される可能性があるように思う。 猪子さんが指摘された『雨』の描き方は、芸術そのものの創造というよりも、表現技法の問題ではないかと思う。油絵のみを学習している限りは、水墨画や水彩画の画像を生成できないのは当然。音楽芸術においても、ピアノ曲のみを学習したAIではオーケストラの作曲はできない。要するに、表現技法の変革を生み出すためには、過去データの学習とは別に、新奇な表現技法を外挿することが必須であろう。 あと、色と審美眼に関して、「スカイブルーは好まれ、黄土色は嫌われる」という話があったが、こうした普遍性があるかどうかは疑わしい。私自身は、海外旅行先としては、青や緑の豊富な世界よりは、地球離れした荒涼とした黄土色の大地を好んでいる。これは、私自身が緑の豊富な日本の風土になじんでいて、荒涼とした大地に非日常性を感じるためかと思う。同じ理由で、パソコンの背景画像に火星表面の黄土色の風景を設定していることもある。 黄土色よりも青空のほうが好まれるかどうかについても文脈によるのではないかと思う。2022年12月23日の日記にも書いたように、ミレーの『落ち穂拾い』の空があのような色で描かれているのはそれなりの理由がある。 次回に続く。 |