じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 3月15日の岡山の最高気温は、18.9℃まで上がった(平年値では4月10日〜11日頃)。半田山植物園ではハクモクレンが一斉に開花したほか、いろいろな蝶が飛び交い、草むらではトカゲがガサガサを音を立てながら移動していた。
 写真は南斜面で見かけた蝶2種。
  • 写真上:うまく接写できなかったが、何枚かの写真に写っていた羽根の模様から『ミヤマセセリ』ではないかと推測。
  • 写真下:『ツマグロキチョウ』と思われる。




2024年3月16日(土)




【連載】100分de名著 #136『偶然性・アイロニー・連帯』(13)第2回 「公私混同」はなぜ悪い?(4)リベラル・アイロニスト/野生蘭の謎

 昨日に続いて、2024年2月5日からNHK-Eテレで放送が開始された、

100分de名著 #136『偶然性・アイロニー・連帯』

についての感想・考察。

 第2回の放送の終わりのところでは、公と私をめぐるローティの主張に関係しているというローティ自身のエピソードが紹介された。ローティの両親は社会民主主義的な活動に熱心で、トロツキーの秘書を自宅にかくまったり、キング牧師とともに公民権運動を指導した人物を支援していた。こうした大人たちに囲まれて社会正義に目覚めたローティであったが、その一方で自生するランを探すという嗜好があった。彼は自宅近くの山中を歩いては、聖なるものに触れるような感覚に浸っていた。公共的な社会正義という使命感と私的な趣味が自分の中に混在しているという矛盾をどう克服するのか、という問いを胸に、彼は哲学の道を志した。哲学がもし人間の本質を追究する学問であり、かつ本質が1つならば、どちらかが正しくてどちらかが間違っているということになる。しかし、歩めば歩むほど、それって別々のままでいいんじゃないか、別々なままでそれらがどうやって社会や個人の中で同居しうるのかを考えるべきだ、というようにローティの考えは変わっていった。

 ローティが理想とした人物像は『リベラル・アイロニスト』であった。
  • リベラル:私たちの社会の「残酷さ」を減らしていくことが最も重要だと考える人。力づくで言うことを聞かされたり、考え方を変えさせられるのは自由ではない。その状態のことを「残酷さ」と呼ぶ。
  • アイロニスト:自己の偶然性を認識し、自分が正しいと信じていることも、いつか改訂されうると考える人。
この公共的な「リベラル」と私的な「アイロニスト』が一人の個人の中に同居していいし、そうあるべきなんだというのがローティの理想像であり、私的な趣味の追求や相手が大事にしていることは一歩一線を引きながらも、残酷な状況に対しては一緒に手を携えて介入をして残酷な状況を解消しようとするのが『リベラル・アイロニスト』という構想であると解説された。
 公と私の境目は時代と共に変化しうる。例えば『ドメスティック・バイオレンス(DV)』と言われる事態は、かつては私的な空間の出来事とされていたが、そうした家庭内の暴力にも社会が介入するんだというように、我々の社会が公共性と私性の境目を変えていったりしている。残酷さへのセンサーというか残酷さへのアンテナを磨く必要があると解説された。

 最後のところで、朱喜哲さんは、

●現代の社会では様々なプライベートな場所とパブリックな場所がごっちゃになっていて、間違っているかもしれないということを安心して喋れる場所が無くなりつつあるかもしれない。それぞれの人にとって、間違っているかもしれないことをちゃんと喋れるような場づくりをどうやってやるのかは公共的課題でもあるし、私たち一人一人がどうやってそのような人間関係や場所を作れるのかが問われている。そのヒントがローティの著書の中にあるとまとめられた。

 ここからは私の感想・考察になるが、まず、「リベラル」については2010年の春に、NHKでマイケル・サンデル教授の『ハーバード白熱教室』、また2012年6月に「マイケル・サンデル5千人の白熱教室」の感想を述べる中でも考察したことがあった。もっともサンデルとローティではいくつか対立点があると聞いている。
 いずれにせよ、江戸時代の封建社会や戦前の軍国主義、あるいは戦後のいくつかの専制主義国家と異なり、自由主義社会のもとでは、自由に自身の考えを表明し、また自由に、他者の意見や政権を批判する権利が保証されている。とはいえ、SNSで本音を漏らすと炎上するというように、それなりの窮屈さや自主規制を強いられているところはあるかもしれない。この解決策については、第3回、さらに第4回のところで詳しく論じられることになるので、その時に改めて考察することにしたい。

 ところで、『公』に対する『私』は、しばしばその人らしさ、唯一無二の存在としての「じぶん」を形作っているものだと考えられがちである。しかし、個人的な趣味・嗜好のようなものは、その人の遺伝的特性と偶然的に与えられた生育環境の中で形成されたものであって、いつでも取り替えができる可能性を含んでいる【←もちろん、性的マイノリティの問題のように、かつては世界保健機関(WHO)の「国際疾病分類」で精神疾患の分野だった『性同一性障害』を『性別不合』に改める動きや、同性婚を認める判決が出るなど、何でもかんでも人為的に取り替えればよいという問題ばかりではないが】。いずれにせよ、『自己の偶然性』を柔軟に捉えることは大切であり、私の持論である『人生は活動の束』論も同じ主張を含んでいる。

 ローティが野生の蘭を好んだというエピソードは興味深いものではあったが、単に植物観察を好むとか美しい花を飾るというだけのことであれば、「公」と対立するほどの「私」には膨らまないように思う。昨年の朝ドラ『らんまん』の主人公・万太郎のように植物採集に熱中していたわけでもあるまい。おそらく蘭に対する偏愛、あるいは単に「この花は綺麗だね」と感じること以上のスピリチュアルな感情をいだいていたものと推察される。もっともBingに尋ねた限りでは、
彼が野生の蘭を愛した理由は詳細には記されていませんが、その美しさに魅了されたことが伝えられています。ただし、彼が特別な感情を抱いていたかどうかは明確ではありません。
という回答をいただいただけで、真相は分からなかった。

 次回に続く。