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こちらの動画で横断歩道の道路標示の改正が検討されているということを知った。従来は白線と空白の幅は45〜50cmと定められていたが、改正案では空白の間隔を45cm〜90cmというように広げることが可能になる見込みであるという。間隔を広げる理由としては、
このことで思ったが、ウォーキングコース沿いには、道路上の白線や文字が殆ど読み取れない所がある。写真は半田山植物園近くの市道の交差点。
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【連載】チコちゃんに叱られる! 「韻を踏むと気持ちよくなる理由」(1) 昨日に続いて、6月7日(金)に初回放送された表記の番組についての感想・考察。本日は、
●ラップは韻をふんで歌っているが、韻を上手に踏んでいるのを聞くと気持ちいいのはなぜ? ということを中心に解説された。 ちなみに私は音楽については全くの素人であり、『ラップ』についてはそういう名前を聞いたことがあるという程度のことしか知らない。改めてウィキペディアを参照したところ、
さて放送では、「リズムと驚きを同時に味わえるから」が正解であると説明された。 言語学を研究している川原繁人さん(慶應義塾大学)&ナレーションによる解説は以下の通り【要約・改変あり】。
私が韻という概念を初めて知ったのはたぶん漢詩を習った時だったと思う。五言絶句・七言絶句などでは文字数が揃っているだけでなくちゃんと韻を踏んでいる。しかし、日本語に書き下した時にはそれらは消失する。またウィキペディアによれば、明治期以降に日本で創作された漢詩は、中国語での発音を考慮していないため、韻律が本場中国の基準からすると破格であり、漢詩として評価されないものが多いと言われる。英語での韻の踏み方も中国語に似ている。 これらに比べると、日本の和歌などでどこまで韻が重視されていたのかは少々疑問に思う。確かに上掲の天武天皇や上杉鷹山のように頭韻を踏んだ歌もあるがそれらが他の歌よりも高く評価されたというわけではあるまい。同じ音が繰り返されているというよりも、例えばカキツバタの花から、 ●唐衣 着つつなれにし つましあれば はるばる来ぬる 旅をしぞ思ふ というように「か・き・つ・ば・た」が読み込まれていれば技巧的に高く評価される。あるいは、 ●大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみもみず 天の橋立 という歌のように、同音異義語を活用した技巧が高く評価される場合もある。 なので和歌の世界では頭韻や脚韻はそれほど重視されて来なかった。というかもし重視されていたら、万葉集やその後の歌集、百人一首などでもっと、韻を踏んだ歌が多数採用されていたはずだ。 そもそも日本語は母音が「aiueo」の五種類しかないので、脚韻を踏まなくてもおしりの部分が似たような発音で終わることが多いように思われる。また、文法上、動詞や形容詞などの述語が文末に来るため、意識しなくても脚韻を踏んだような形になりがちである。例えば、上掲のYOASOBIの『アイドル』では「です」や「ない」が脚韻であると紹介されていたが、別段脚韻を意識しなくても、日本語では「です」や「ない」は文末に来るのが当たり前だ。同じく放送の中で紹介された吉幾三の『俺ら東京さ行ぐだ』で「無ェ」が連発されているのも、日本語の否定文なら当然であり、羅列すれば必然的に脚韻を踏んだことになる。 ということで、脚韻を踏むように意図的に名詞を選んだ漢詩や英詩に比べると、日本語の詩や歌では脚韻はそれほど意識されなかったのではないか、また多くは韻というよりも掛詞(やダジャレ)が多かったのではないかと私には思われる。 次回に続く。 |