じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



07月のインデックスへ戻る
最新版へ戻る




クリックで全体表示。



 半田山植物園で見つけたニイニイゼミ。桜の幹の低い位置で鳴いていた。動画も撮れたので、YouTube動画のセミコレクションに追加する予定。


2024年7月4日(木)




【連載】千の顔をもつ英雄(2)ヒーローズ・ジャーニー

 昨日に続いて、NHK-Eテレで7月1日に初回放送された、『100分de名著』:

キャンベル“千の顔をもつ英雄” (1)神話の基本構造・行きて帰りし物語

 昨日の日記でも述べたように、キャンベルは、

●神話の基本構造は、反時計回りの円により図示されていた。12時の位置から始まり、9時の位置が「X:出立、旅立ち」、6時の位置が「Y:試練」、「Z:帰還」というプロセスをたどる。

という『モノミス=単一神話論<英雄の旅>』の概念を打ち立てた。ウィキペディアによればもう少し広い概念として『ヒーローズ・ジャーニー』があり、リンク先では、
物語論と比較神話学において、ヒーローズ・ジャーニー(英雄の旅)、または単一神話(モノミス、神話の原形、原質神話)は世界中の多くの民話や神話に共通する、主人公が日常から何らかの非日常に遷移し最大の試練を乗り越え宝を持って再び日常へ帰還する通過儀礼の構造である。
と定義されてり、キャンベル独自のアイデアではないようだ。さらに、リンク先の続きでは、
キャンベルの英雄冒険神話(monomyth)研究などはプロフェッショナルな民俗学者(アカデミックなフォークロア)とは名乗れないものだと言われている。キャンベルの「英雄の旅」はむしろ映画のシナリオ作りの理論として応用可能性・普遍性が評価されている。

【中略】
英雄の旅の神話の研究は物語論と比較神話学において多様な神話の土台が初期の人類にあると仮定した1871年の人類学者エドワード・バーネット・タイラーに遡り得る。他方で1909年に精神分析学者オットー・ランクと1936年にアマチュア人類学者ロード・ラグランは英雄神話に共通する構造を指摘した。ランクとラグランは手法もその結果の類似の指摘も似ているが、なぜ類似するのかという理由についてはそれぞれ依って立つ考え方の違いのために結論が異なっている。キャンベル自身は英雄神話が個人の深層心理から生まれるが故に普遍的だという深層心理学的な考え方より、英雄とは実際の存在ではなく祭式の存在であるというランクの名前は一箇所出しても英雄とは集団的自画像であるというラグランの名前はまったく出していない。フロイト、ランク、ユング、キャンベル、フォン・フランツの諸見解から、英雄に表わされる心理は自我一般の象徴というより、「自己に従って現在のうちに生成を続ける自我のモデルとしての象徴」とまとめることができる。


 昨日も述べたように、私自身は『英雄の旅』の構造は、語り手が提供するストーリーとそれに対する話し手の反応の相互作用(強化)によって、つまらない部分は切り捨てられ、面白い逸話は付け足されることで、結果として完成されたようなものであると思っている。なので、その形成過程は、恋愛ものでも、笑い話でも変わらない。英雄ものだけが「自己に従って現在のうちに生成を続ける自我のモデルとしての象徴」として特別視すべきものではないように思う。では、なぜ『英雄の旅』は類似するのか?ということだが、私自身は、
  1. そもそも「日常からの出立」→「非日常での試練」→「日常への帰還」は、読者が主人公に感情移入し、冒険にワクワクし、日常に戻るという点でもっとも妥当な構成になっている。論理的には「非日常からの出立」→「日常での試練」→「非日常に帰還」という展開【例えばかぐや姫が非日常の月の世界からやってきて日常で奮闘(?)し、月に帰るという展開】も可能だが、これでは主人公は明らかに自分とは別人であり共感しにくいところがある。これはスーパーマンやウルトラマンでも同様。
  2. 長いこと語り継がれてきた神話や民話は、他の地域で人気があったエピソードが盛り込まれやすい。
  3. 同じ地球であれば環境条件は大差無い。現実世界からの想像によって作られる天国や極楽浄土は当然地球環境に似てくるし、そこに住む神々もまた人間に似てくるので、ストーリーも同じようなものになりやすい。
というように考えている。なので、そんなに大げさに「深層心理」などを想定して深い意味などを考えなくても、単に面白ければそれでよいという気もする。ま、若者が自身の成長のために英雄の旅を取り入れるのは大いに結構であるとして、私のようなあと何年生きられるか分からない者にとってはもはや右上がりの成長神話は当てはまらなくなりつつある。英雄がどういう試練を克服したのか、ということではなく、老いた英雄がどのように死を迎えたのか、と言うことであればそれなりに参考になるかもしれないが。

 不定期ながら次回に続く。