じぶん更新日記

1997年5月6日開設
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 物価高に対抗して相変わらず2割〜半額の割引商品ばかり買っているが、こうした『割引生活』にはいくつか落とし穴があることに気づいた。
  • いつどれを食べるのかという見通しを立てずに何でもかんでも買ってしまう。
  • 定価ではかなり高い商品を「割引」というお得感だけで買ってしまう。
  • 健康にはあまり良くないと思われる甘いお菓子(クリーム入りなど)をつい買ってしまう。
  • 惣菜に含まれている添加物が気になる。


2025年02月18日(火)




【連載】最近視聴したYouTube動画(5)岡田斗司夫さんの動画をもとに宗教について考察する(2)宗教とフィクションとの違い

 2月14日に続いて、最近視聴したYouTube動画の感想・考察。「岡田斗司夫さんの動画をもとに、宗教について私自身の考えを述べる」という趣旨であるが、その前に、「私の考え」のほうをもう少しだけ補足させていただく。

 2月14日の日記で、私自身は一貫して無宗教であるが、

●数学における実数から虚数への拡張と同じように、現実世界に宗教世界を拡張することでより豊かな世界が構築できるのであれば、それはそれで悪くないかもしれない。

と述べた。但し、特定の宗教を信じてしまうと、その教義のもとでその人の日常生活行動や内面の多様性が失われしまう恐れ(教義に従うような一面的な見方しかできなくなる恐れ)があるとも指摘した。

 ここでもう少し、「現実世界」について補足をさせていただく。
  1. 上記の「現実世界」というのは地球環境そのものではない。あくまで個々人が経験を通じて構成した世界に過ぎない。なので「現実世界」というより「経験世界」と呼んだほうが妥当であるかもしれない。
  2. ここでいう経験とは概ね、個々人が環境に働きかけその結果によって強化されるという『オペラント条件づけ』を通じて構成される。
  3. 人々は働きかけ(=オペラント行動)によって環境を変えたり、環境内の変化を予測したりすることができる。
  4. 個々人が構成する世界は少なくとも同時代においては殆ど共通した内容になる。その理由は地球上の物理現象が規則性を持っていること、人間の体格や神経構造が共通していること、集団内の伝統・文化・規範によって特定の価値が植え付けられることなどによる。なので、ガリバー旅行記に出てくるような小人国や大人国があればこの世界は違って見える。また大昔の人は自分の生活上の経験を通して、この世界は平面であると考えてきた。
  5. 現代人においても「経験世界(現実世界)」は人によって異なる。目の見えない人は触覚や聴覚などを手がかりに世界を構成する。身の回りの物がどういう色に見えるかというのは、それぞれの人の色覚受容器や脳の特性によって異なる。2色型、3色型、4色型によって見え方が違うほか、こちらの動画に紹介されている様々な絵のように、同じ3色型の人でも違う色に見えることがある。
  6. もっとも、もし交通信号の赤や青が人によって反対の色に見えてしまうようでは事故が起こって大混乱になる。少なくとも同時代・同地域において、個々人の「経験世界」に共通性があるからこそ私たちの暮らしが成り立っている。

 さて、上記の「経験世界(現実世界)」は、個々体の直接経験を通じて構成される世界として定義されたが、人間の場合は言葉を使うことによって、自分が直接体験していない状況にも対処できるようになった。例えば、
  1. 「あの場所はオオカミが出る」というように言語的に伝えられた情報によって、聞き手の世界には「オオカミが出る危険の場所」が拡張される。
  2. 言葉を通じて事物を比較したり分類したり、また手順を言語化して記録することで、未経験の人に技術を伝えることができる。
  3. われわれはこうして「直接経験の世界」から拡張された「半観念的」な世界に住んでいると言える。その世界では、人や事物はありのままではなく、何かしら分類された観念や感情とセットとして認識される


 さて、こうした言語行動の発達によって、人々は経験世界では目にすることができないような様々な観念世界を作り出すようになった。その1つが宗教世界であるが、他にも、
  1. 小説、アニメ、ドラマ、映画などの世界
  2. RPGなどのゲームの世界
  3. 匿名で語り合うSNSの世界
などがあり、いずれも、「現実世界=実数空間」から拡張された虚数空間に喩えることができる。
 上記のうちの1.は以下のようにさらに細かく分類することができる。
  1. ノンフィクション
  2. 異なる時代を描いた作品
  3. 異なる空間(別の惑星など)を描いた作品
  4. 人間にはできない能力(魔法など)を身につけた人たちを描いた作品【魔法ではないが未来の科学技術を想定したSF作品もこれに含まれるかも】
これらは現実世界そのものではないので、【ノンフィクションを別とすれば】架空の世界への拡張という点では虚数空間に喩えられる宗教と同じようなものと言うことができる。

 じっさい国語辞典で「フィクション」をひもとくと、
  • 【大辞泉】1 作り事。虚構。/2 作者の想像力によって作り上げられた架空の物語。小説
  • 【新明解】(一)虚構。(二)作り話。小説。
  • 【三省堂国語辞典】@こしらえごと。虚構(キョコウ)。A小説。作り話。(⇔ノン フィクション)
というように定義されており、【熱心な信者さんには恐縮だが】宗教が想定している天国、極楽浄土、地獄などと本質的には変わらないことが分かる。

 では、宗教は小説、RPG、匿名者どうしのSNSなどと何が違うのか? 私が考えるには、小説などのフィクションやRPG、SNSなどは、もともと現実世界と切り離された世界であって、現実の日常生活を拘束したり干渉したりすることは決して無い。小説の中でどんなに悲しい結末が描かれていても、RPGで失敗しても、匿名SNSで炎上したとしても、その気になれば直ちにその世界へのワープの扉を閉鎖することができる。
 これに対して宗教は、現実世界における生活を方向づけたり、特定の所作を意味づけしたり制約したり、さらには布教活動に従事させたりというように、宗派による違いはあるものの、ことごとく現実世界に干渉をしてくる。上にも述べたように、このことで「その人の日常生活行動や内面の多様性が失われしまう恐れ(教義に従うような一面的な見方しかできなくなる恐れ)」が生じるというのが一番の問題かと思う。

 宗教が単に『神話の物語』だけにとどまるのであれば小説に夢中になるのと変わらない。要するに、その宗教の教義を1つのフィクションという範囲で捉えている限りは問題はない。問題となるのはあくまで現実の生活に必要以上の影響を与えてしまうことにある。

 余談だが、YouTube上で、仏教系の新興宗教の講師の方の解説動画を何度か拝聴したことがある。内容自体はそれなりに筋が通っているところもあるのだが、別の宗派の立場からの批判動画もあり、それまた筋が通っており、私にはどちらが正しいのかは判別できない。但し、現職時代に何度か教育委員とか学生生活委員を務めていた時の経験から言えば、年度末の卒業判定の際に、当該の新興宗教にハマってしまった学生の名前が毎年のように挙がり、最終的には在籍年限を超過して除籍になるという不幸な事態に直面したことが複数事例あった。いくら新興宗教の教義が正しかったとしても、学生である以上、まずは大学の授業にちゃんと出席してちゃんと卒業すること、布教活動をするならその後でもよかろうと思うのだが、そうはいかなかった。その新興宗教を信じることで勉学の励みになるならともかく、逆にその人の学生生活を崩壊させてしまったということは、やはり望ましくないカルト宗教であったと言わざるを得ないところがある。【この件に関して何かコメントをいただいたとしても一切お返事はしません。あしからず】

 次回に続く。