じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
【連載】最近視聴したYouTube動画(5)岡田斗司夫さんの動画をもとに宗教について考察する(2)宗教とフィクションとの違い 2月14日に続いて、最近視聴したYouTube動画の感想・考察。「岡田斗司夫さんの動画をもとに、宗教について私自身の考えを述べる」という趣旨であるが、その前に、「私の考え」のほうをもう少しだけ補足させていただく。 2月14日の日記で、私自身は一貫して無宗教であるが、 ●数学における実数から虚数への拡張と同じように、現実世界に宗教世界を拡張することでより豊かな世界が構築できるのであれば、それはそれで悪くないかもしれない。 と述べた。但し、特定の宗教を信じてしまうと、その教義のもとでその人の日常生活行動や内面の多様性が失われしまう恐れ(教義に従うような一面的な見方しかできなくなる恐れ)があるとも指摘した。 ここでもう少し、「現実世界」について補足をさせていただく。
さて、上記の「経験世界(現実世界)」は、個々体の直接経験を通じて構成される世界として定義されたが、人間の場合は言葉を使うことによって、自分が直接体験していない状況にも対処できるようになった。例えば、
さて、こうした言語行動の発達によって、人々は経験世界では目にすることができないような様々な観念世界を作り出すようになった。その1つが宗教世界であるが、他にも、
上記のうちの1.は以下のようにさらに細かく分類することができる。
じっさい国語辞典で「フィクション」をひもとくと、
では、宗教は小説、RPG、匿名者どうしのSNSなどと何が違うのか? 私が考えるには、小説などのフィクションやRPG、SNSなどは、もともと現実世界と切り離された世界であって、現実の日常生活を拘束したり干渉したりすることは決して無い。小説の中でどんなに悲しい結末が描かれていても、RPGで失敗しても、匿名SNSで炎上したとしても、その気になれば直ちにその世界へのワープの扉を閉鎖することができる。 これに対して宗教は、現実世界における生活を方向づけたり、特定の所作を意味づけしたり制約したり、さらには布教活動に従事させたりというように、宗派による違いはあるものの、ことごとく現実世界に干渉をしてくる。上にも述べたように、このことで「その人の日常生活行動や内面の多様性が失われしまう恐れ(教義に従うような一面的な見方しかできなくなる恐れ)」が生じるというのが一番の問題かと思う。 宗教が単に『神話の物語』だけにとどまるのであれば小説に夢中になるのと変わらない。要するに、その宗教の教義を1つのフィクションという範囲で捉えている限りは問題はない。問題となるのはあくまで現実の生活に必要以上の影響を与えてしまうことにある。 余談だが、YouTube上で、仏教系の新興宗教の講師の方の解説動画を何度か拝聴したことがある。内容自体はそれなりに筋が通っているところもあるのだが、別の宗派の立場からの批判動画もあり、それまた筋が通っており、私にはどちらが正しいのかは判別できない。但し、現職時代に何度か教育委員とか学生生活委員を務めていた時の経験から言えば、年度末の卒業判定の際に、当該の新興宗教にハマってしまった学生の名前が毎年のように挙がり、最終的には在籍年限を超過して除籍になるという不幸な事態に直面したことが複数事例あった。いくら新興宗教の教義が正しかったとしても、学生である以上、まずは大学の授業にちゃんと出席してちゃんと卒業すること、布教活動をするならその後でもよかろうと思うのだが、そうはいかなかった。その新興宗教を信じることで勉学の励みになるならともかく、逆にその人の学生生活を崩壊させてしまったということは、やはり望ましくないカルト宗教であったと言わざるを得ないところがある。【この件に関して何かコメントをいただいたとしても一切お返事はしません。あしからず】 次回に続く。 |