じぶん更新日記

1997年5月6日開設
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 今年の秋分は9月23日の03時19分となっている。毎年秋分の日に日の出の写真を撮ろうとしているのだが、「晴れの国岡山」といえどもなかなか晴れてくれない【←このほか旅行で不在の年もあり】。
 今年のも左の写真のように雲に覆われた。
 過去日記を調べたところ、直近で日の出の写真が撮れたのは2018年9月23日であった。右の写真参照。

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2025年09月23日(火)




【小さな話題】宮沢賢治『春と修羅』をAIに書き換えてもらう(1)AIによる解釈、現代ふうに書き換え

 SNSに宮沢賢治『春と修羅』の『序』の冒頭部分が引用されていた。ウィキペディアによればこの詩集(第一集)には69編の作品と「序」から構成されており、賢治の生前に唯一刊行された詩集として知られる。

 「わたくしといふ現象は 仮定された有機交流電燈の ひとつの青い照明ですから始まる序の部分については、20年前の2005年9月21日の日記で取り上げたことがあった。日本心理学会69回大会のワークショップ;

【2005年9月11日 夕刻】WS70 詩的表現のもつ語りの力-----質的心理学の方法論(2)(企画・司会:やまだようこ、話題提供:やまだようこ、サトウタツヤ、矢守克也、指定討論:南博文、本山方子)

で、やまだようこ氏が宮沢賢治の『春と修羅』の一節)を朗読されたという記録が残っている。
 このほか、『宮澤賢治はなぜ浄土真宗から法華経信仰へ改宗したのか』(2016年4月10日ほか)、さらに100分de名著の感想として『春と修羅』に言及した記憶があるが定かではない。




 前置きが長くなったが、今回対象としたのは以下の部分であった。
わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよにせはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈のひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)

 まず、ChatGPTによる解説は以下の通り。


いい作品を選ばれましたね。この詩は宮沢賢治が生涯の後半に書いたもので、死の直前に近い思想が色濃く出ています。難解に見えますが、イメージをかみ砕くと理解しやすくなります。

◆### 詩の内容を分解して説明
  1. **「わたくしといふ現象」**
    →「わたし(宮沢賢治)という存在は、実体ではなく“現象”にすぎない」という自己認識。
    つまり、自分の存在は「固定されたもの」ではなく「現れては変わっていくもの」と捉えています。
  2. **「仮定された有機交流電燈のひとつの青い照明」**
    →「有機交流電燈」というのは、電気が流れて点滅するランプの比喩です。
    「青い照明」は冷たくも澄んだ、清浄な光を示します。
    賢治は自分の存在を「大きな電源(宇宙や因果)から生まれる、一時的な青い光」と表現しています。
  3. **「(あらゆる透明な幽霊の複合体)」**
    →人間は「自分ひとり」で存在しているように見えて、実際は過去の人や自然、社会との関わり(幽霊のようなもの)の積み重ね。
    自分はその集合体にすぎない、という考えです。
  4. **「風景やみんなといっしょにせはしくせはしく明滅しながら」**
    →人間はひとりではなく、自然や他人とともに常に変化し、絶えず点滅するように生きている。
    「せはしく」は「せわしく(忙しく)」の古い言い方で、生の営みのせわしさをあらわします。
  5. **「因果交流電燈のひとつの青い照明です」**
    →「因果」とは仏教的な因果律(原因と結果のつながり)。
    賢治は「わたし」という存在は因果の流れの中で一時的に光る電灯の一つにすぎない、と言っています。
  6. **「(ひかりはたもち その電燈は失はれ)」**
    →個人(電灯の器)はやがて壊れるが、その光(存在の意味・影響・因果)は受け継がれて残っていく。
    つまり「肉体は滅びても、つながりや影響は生き続ける」という死生観です。

◆### 全体のイメージ
宮沢賢治は自分を「独立した存在」と見なさず、宇宙や自然の「大きな電流」の一部として一時的に光っている灯りだと考えています。
  • **わたしは単独のものではなく、世界とつながった“現象”にすぎない**
  • **わたしの体は滅びても、光(影響・因果)は続いていく**
というのがこの詩の核心です。

◆### わかりやすいまとめ
この作品は、賢治が「人間は宇宙や因果の中で一瞬きらめく光のような存在」と表現したものです。
私たちは単なる個人ではなく、他者や自然と関わりながら一瞬だけ光り続け、その光は肉体がなくなっても消えずに伝わっていく――そんな死生観・宇宙観が込められています。

 AIの解説はほぼ妥当かと思うが、所詮ネット上で公開されている種々の解釈を収集し整合性を保つように要約したものであり、AIが独自に作り出したとは言いがたい。現時点と異なる見解が多数派となればAIの解釈も変わっていくだろう。

 ネット上で検索したところ、こちらにより深い解釈が示されていた。以下にいくつか抜粋させていただく【要約・改変あり】。。
  • 自分は現象に過ぎない。ここには、仏教の無常観と此縁性、カントの認識論が読み取れます。
  • あなたが見ている私は、常に変化し続けていて、次の瞬間には別の私になっている。
  • さらに私は他の万物との縁起で結ばれており、お互いに影響し合いながら存在している。
  • 実在するかどうかではなく、現象として見えている私が、今この瞬間の私なのである。
  •  自分は有機交流電燈、因果交流電燈の照明。
    • 有機は生物であること
    • 交流は一定の周波数で常に変化していること
    • 電燈は自分が視覚情報であること
    • 因果は他者と縁起で結ばれていること
    を表している。
  • 自分を照明だと規定する心理には、暗闇を照らし出す灯明としての自分を意識があるのかもしれない。
  • 透明な幽霊の複合体
    →現象に過ぎない私が連続することで私は存在しているという意味。そして、それは常に明滅しています。定まりなく生滅する、つまり無常。

 なるほど、ただの「電燈」ではなく「交流電燈」としたのには「一定の周波数で常に変化している」という意味があったのか。であるなら「蛍光灯」のほうが明暗の変化がハッキリしているようにも思われるが、当時普及していたかどうかは調べてみないと分からない。

 さてChatGPTから「ご希望であれば、この詩を **現代的なたとえ**(例えばスマホの光やインターネットのネットワークに置き換えて)説明することもできますが、やってみますか?」という提案があったのでさっそくお願いしたところ以下のようになった。


では、宮沢賢治のこの詩を **スマホやネットのイメージ** に置きかえてみますね。

◆### 現代的なたとえ
  1. **「わたくしといふ現象」**
    →わたし(人間)は「本体」ではなく、ネットに映し出された「画面上の光」にすぎない。
    実体そのものではなく「現象」として見えている存在。
  2. **「有機交流電燈のひとつの青い照明」**
    →みんなのスマホがWi-Fiにつながって画面を光らせているイメージ。
    自分もその一つの「青白い画面の光」にすぎない。
  3. **「あらゆる透明な幽霊の複合体」**
    →スマホの光には、自分の情報だけじゃなくて、歴史、他人の言葉、SNSでのやりとり、先人の知識が映り込んでいる。
    自分はそうした「見えない存在の集合体」からできている。
  4. **「風景やみんなといっしょにせはしく明滅」**
    →スマホの画面は通知や動画でパッパッと明滅するように、
    人間も自然や他者と関わりながら、せわしなく変化し続けている。
  5. **「因果交流電燈」**
    →スマホやネットは電源(大きな因果)に支えられて初めて光る。
    同じように、人間の存在も宇宙や自然の因果律の中に組み込まれていて、一瞬の現れにすぎない。
  6. **「ひかりはたもち その電燈は失はれ」**
    →スマホ本体が壊れても、クラウド上にデータは残る。
    同じように、人間の体は滅んでも、その人の影響や思いは他人の中や世界に残り続ける。


◆### まとめると
宮沢賢治の詩を現代風に言えば、
  • 「わたしたちは、宇宙という大きなWi-Fiにつながったスマホの光のひとつ。
  • 本体(体)は壊れても、光(影響)はネットワークの中に残り続ける。」
というイメージになります。

 ウィキペディアには、

使用した原稿用紙から、改稿・推敲は最晩年までおこなわれていたことが確認されている。

というように賢治は一言一句、言葉を慎重に選んで詩を創作した。そういった芸術作品を、勝手に書き換えてしまってよいものだろうかという後ろめたさもあるが、さまざまな書き換えを行うことで芸術作品を多角的に捉えるというメリットは捨てがたい。

 次回に続く。