【小さな話題】NHK朝ドラ『あんぱん』の最後のセリフは「ウチのアンパンマンや」か? 「今日のお昼は何にする?」か?
NHK朝ドラ『あんぱん』が9月26日(金)に終了した。私はもともと朝ドラを視ない主義であり【←ハマると視聴時間が拘束されるほか、ドラマの展開で喜んだり悲しんだりするのは嫌だから】、これまで第1話から最終話まできっちり視聴したのは、『純と愛』、『らんまん』の2本だけであり、今回がわずか3本目となる。
4月〜6月頃は先の展開が気になって思わずYouTube動画のネタバレ情報を見てしまったりしたが、7月以降はそれらをすべて封印し、自分だけで先の展開を予想しながら視聴した。
のぶが嵩より先に亡くなることは史実から予想していたが、悲しいお別れシーンは避け「生きる日常を描く」ことに徹していたのは良かったと思う。もっとも私の予想、というか期待していたラスト;
加齢によるさまざまな困難から嵩は引退を決意するが、東日本大震災直後「アンパンマンのマーチ」が復興のテーマソングのような扱いをされたり、「笑顔を失っていた子供たちがアンパンマンを見て笑顔を取り戻した」といった良い話が嵩の元に届いたことから、これを撤回し、震災後の復興支援イベントに参加する。アンパンマンの歌とともにドラマ終了。
には至らなかった。
さて、各種情報によれば、ラストの撮影時、2人が並木道【←ロケ地は昭和記念公園】を歩いている時に、のぶの「今日のお昼は何にする?」というアドリブがあったそうだが、カットされたという。ネットで検索したところ、こちらには放送されていたという記述もあったが、私が録画映像を複数回チェックした限りではやはりカットされてしまったようである。
でもって、最後のセリフは、のぶの「嵩さんはウチのアンパンマンや」【←厳密には、のぶと嵩が声を合わせて「ほいたらね。」が最後だが、作中のセリフではない。】ということになった。この「ウチのアンパンマン」というのは、本来の「みんなのアンパンマン」を私物化しているような印象があり、私には違和感があったのでさっそくChatGPTに、
【質問】アンパンマンはあくまで「みんなのアンパンマン」であって、個人に特定した「ウチのアンパンマン」という表現には違和感を覚えるのですが...
と質問させていただいたところ以下のような回答をいただいた。
なるほど、するどい違和感ですね。
確かにアンパンマンは「みんなのヒーロー」であって、誰か一人のものではない、というのが基本のキャラクター像です。そこに「ウチのアンパンマン」という表現を持ち込むのは、一見するとズレているように感じられます。
でも、ドラマの最終回のセリフに込められた意図を考えると、違和感もある意味で計算されていると言えそうです。
- 「ウチの」という言葉が持つニュアンス
関西弁の「ウチの○○」は、必ずしも「所有」の意味ではなく、
- 自分にとって身近で大事な存在
- 家族や恋人、仲間に向けた親しみ
を表します。
なので「ウチのアンパンマン」は「独り占めする」という意味ではなく、**“私にとって特別なアンパンマン”** という愛情表現です。
- 公(みんな)と私(のぶ)の重ね合わせ
アンパンマンは「みんなを助ける存在」ですが、のぶにとっては特に嵩が **自分を救ってくれたヒーロー** でした。
その「みんなのヒーロー像」を、のぶが「自分の物語」として引き寄せたときに出てきた言葉が「ウチのアンパンマン」なんですね。
→ つまり「みんなの存在であることは承知の上で、私にとってはとりわけ大切なアンパンマン」という二重の意味合い。
- 違和感こそがメッセージ?
視聴者が「アンパンマンはみんなのものでは?」と一瞬立ち止まることで、
- **誰にとっても“自分のアンパンマン”がいていい**
- その存在は身近な誰か(家族・友人・伴侶)であることもある
というメッセージを浮かび上がらせています。
- まとめると
「ウチのアンパンマン」は、所有ではなく「私にとってかけがえのない救い手」という親密な呼び方。
あえて「みんなのもの」を「ウチの」と言い切ることで、のぶの個人的な感謝と愛情を際立たせた、ちょっとした“ズラし表現”なんですね。
なるほどさすがAI。屁理屈のような印象も皆無とは言えないが、「ウチの」の正しい意味や、のぶと嵩の人生をふりかえれば、違和感は解消できるように思われる。
ChatGPTからはさらに、「アンパンマンという普遍的存在を“私物化”することの意味」についても解説をいただいた。
「アンパンマンという普遍的存在を“私物化”することの意味」について、整理してみますね。
- アンパンマンは「みんなのヒーロー」
原作やアニメにおけるアンパンマンは、誰一人区別せず助ける存在です。
彼は「自分を犠牲にしてでも他者を救う」象徴であり、普遍性・公共性を帯びたキャラクターです。
つまり、基本的には「みんなのアンパンマン」であって、個人のものにはならない。
- それを「私物化」する言葉の効果
そんな普遍的な存在に対して「ウチのアンパンマン」と言い切るのは、
あえて矛盾を抱えた表現です。ここにドラマ的な意図があります。
-
**所有の誇張**
「ウチの」と言うことで、まるで自分だけのもののように聞こえる。
→ 実際には所有できない存在だからこそ、強い親密さ・感謝を強調できる。
- **公共と個人の橋渡し**
みんなのものであるはずの存在を、あえて「私にとって特別」と呼ぶことで、
普遍的なヒーロー像を個人の体験に引き寄せる。
→ 視聴者にも「自分にとってのアンパンマン」を思い浮かばせる効果がある。
- 違和感がもつメッセージ性
視聴者が「アンパンマンはみんなのものでは?」と違和感を覚えることで、次の問いが浮かびます。
- 「自分にとってのアンパンマンは誰か?」
- 「みんなのヒーローを、自分はちゃんと見つけているか?」
- 「あるいは、自分が誰かのアンパンマンになれているか?」
つまり「みんなのものを“私のもの”と呼ぶこと」が、逆に普遍性を再確認させる装置になっているわけです。
- ドラマ的まとめ
- **普遍的存在(みんなのアンパンマン)** を
- **個人的体験に落とし込む(ウチのアンパンマン)**
この表現の「私物化」は、のぶの愛情と感謝をドラマチックに際立たせると同時に、視聴者に「誰にでも“自分のアンパンマン”がいる」という普遍的メッセージを届けています。
◆言い換えるなら、
「嵩さんはウチのアンパンマンや」というセリフは、 **“私のアンパンマン”という個人的な物語と、“みんなのアンパンマン”という普遍的な物語をつなぐ接点** だったのだと思います。
最後に、以下のように質問してみた。
【質問】ドラマのラストでは、のぶの「今日のお昼は何にする?」というアドリブのシーンもあったそうですがカットされたと聞きます。こちらのほうが「ウチのアンパンマンや」」より良いとは思いませんか?
面白い視点ですね。
のぶのアドリブ「今日のお昼は何にする?」がラストに採用されなかったことについては、確かに「ウチのアンパンマンや」と比べると、意味合いが大きく変わります。
- 「ウチのアンパンマンや」の特徴
- ドラマのテーマ(支え合い・勇気・愛情)を **象徴的に総括する言葉**。
- 公(みんな)と私(のぶ)の重ね合わせを強調。
- 一種の「名台詞」として記憶に残る。
- → ただし「アンパンマンを“私物化”してよいのか?」という違和感も伴う。
- 「今日のお昼は何にする?」の特徴
- 極めて **日常的で平凡な言葉**。
- それまでの苦労や試練を経て、やっと「普通の生活」に戻れたことを象徴。
- 夫婦の関係をありのままに描き、余韻を残す。
→ 抽象的なメッセージ性よりも、**生活そのものの尊さ** を静かに示す。
- どちらが「良い」か?
これは演出の意図次第で評価が分かれます。
- **「ウチのアンパンマンや」派**
→ ドラマ全体をシンボリックにまとめたい。
→ 視聴者に強い印象を残したい。
→ 名台詞として歴史に刻みたい。
- **「今日のお昼は何にする?」派**
→ 日常の尊さをラストに置くことで、むしろ深いリアリティを生む。
→ 「非日常(ヒーロー性)」より「日常(生きることの継続)」を重視。
→ 派手さはないが、余韻と温もりが残る。
- ## まとめ
のぶのアドリブは「大団円の象徴(ウチのアンパンマン)」よりも **静かで生活感のある幸福** を伝えるラストになりえたと思います。
つまり
- 「ウチのアンパンマンや」=象徴的・記号的・名台詞
- 「今日のお昼は何にする?」=生活的・リアル・余韻
どちらが「良い」かは、ドラマを**「象徴の物語」として締めたいか、「日常の物語」として締めたいか**によって評価が分かれるのではないでしょうか。
個人的には、もしこのドラマが「アンパンマン的ヒーロー像」を描くことが核心なら前者が適切、「人が生きていく日常の尊さ」を描くことが核心なら後者のほうがしっくりくる、と感じます。
質問ばかりしていたので、ChatGPTのほうから、
あなたご自身は、この朝ドラのテーマを **「ヒーロー性の継承」** と捉えていますか? それとも **「日常のかけがえなさ」** と捉えていますか?
と逆に訊かれてしまったので私は後者のほうだと答えると、さらに追加の説明をいただいた。
なるほど!「日常のかけがえなさ」をテーマとして受け取っておられるのですね。
その視点から見ると、のぶのアドリブ「今日のお昼は何にする?」は実にしっくりきます。
- 日常へ戻ることの尊さ
物語のクライマックスでは試練や象徴的な出来事が積み重ねられますが、最後に残るのは結局「普通の生活を共に続けていけること」。
- 特別な名言よりも
- いつもの夫婦の会話が続くこと
そのほうが、視聴者に深いリアリティと安堵感を与えます。
- 「非日常(アンパンマン)」から「日常(お昼ごはん)」へ
「ウチのアンパンマンや」は、象徴的で非日常的なヒーロー像の延長線上にある言葉です。
一方「今日のお昼は何にする?」は、非日常の物語を経た末に、あえて「日常へと帰っていく」言葉。
つまり、ドラマを**象徴から生活へと着地させる選択肢**だったといえます。
- 受け手の余韻
- 「ウチのアンパンマンや」→ メッセージを強く固定し、象徴的に物語を締める。
- 「今日のお昼は何にする?」→ メッセージを固定せず、余韻の中で視聴者が「自分にとっての幸せな日常」を考えられる。
後者は視聴者に解釈の余白を残す分、か
えって「生きていくことの尊さ」を普遍的に伝える方法だといえますね。
- 結論
あなたの感じられた「アドリブのほうが良い」という感覚は、**「非日常の物語を経て、再び日常に戻れること」こそが最大の幸福**という、朝ドラ的テーマにより自然に沿ったものだと思います。
では結局、「ウチのアンパンマンや」と「きょうのお昼は何にする?」ではどのように異なる余韻を与えるのだろうか。これについての解説は以下の通り。
いいですね、では比較してみましょう。
- 「ウチのアンパンマンや」で終わった場合の余韻
- **方向性が固定される**
視聴者は「嵩=のぶにとってのヒーロー」「愛と勇気をくれる存在」というメッセージをそのまま受け取る。
- **記号的・象徴的**
ドラマのテーマ(ヒーロー像・支え合い)を象徴する「名台詞」として残る。
* **余韻の形**
強い印象は残るが、解釈の余地は少なめ。視聴者は「良いこと言ったな」と納得して幕を閉じる。
- 「今日のお昼は何にする?」で終わった場合の余韻
- **方向性を限定しない**
メッセージを視聴者に押し付けず、会話の自然な流れで物語が終わる。
- **日常への回帰**
「非日常の試練を超えて、ふたりは普通の生活を続けていける」という静かな安心感が生まれる。
- **余韻の形**
セリフそのものは平凡だが、視聴者は「日常って大切だな」「自分にとっての幸せは何だろう」と考えるきっかけになる。
- 朝ドラ文法から見た違い
朝ドラの多くは、最後に「象徴的な一言」で締めるパターンと、「日常へ戻す一言」で締めるパターンの2種類があります。
- 前者(象徴型):作品を一本の「物語」として完結させる。
- 後者(日常型):物語が終わっても人生は続く、という“余白”を提示する。
あなたが共感された「日常型」は、実は朝ドラにとても相性が良く、視聴者の日常と地続きになる形で幕を閉じる力があります。
- まとめ
「ウチのアンパンマンや」なら → **強いメッセージでドラマを象徴的に終わらせる**
「今日のお昼は何にする?」なら → **日常に帰ることで余韻を残し、視聴者の日常に物語を溶け込ませる**
つまり、アドリブが残っていたら、ラストはもっと「生活のあたたかさ」「普通に続いていく幸せ」を強調した余韻になっていたでしょう。
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