じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa


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[今日の写真] 桃の花の蕾膨らむ。


3月15日(水)

【思ったこと】
_00315(水)[教育]『受験勉強は子どもを救う』か(6)努力、情勢分析、適性など

 昨日の日記の続き。今回は、努力の意味や適性について考えてみたいと思う。

 3/13の日記の最後の部分で
公平というのは、単に主観が入らないとか文句が出ない工夫をするということではなくて、もっと根源的に、 努力をした者が、その努力に応じた結果を享受できるかどうかというところにあるように私は思う。
と述べたことに関して、Web日記や私信でいくつかご意見をいただいた。ここで、もう少し「努力」とは何かについて考えてみたいと思う。『新明解』によれば、
努力:ある目的を達成するために、途中で休んだり 怠けたりせず、持てる能力のすべてを傾けてすること。
とされている。この場合の目的は、きわめて私的な内容を主体とする場合もあれば、集団に影響を及ぼしたり公共的な性格を帯びる場合もある。前者の場合としては例えば、日本百名山全山踏破、お百度まわり、Web日記100日間連続更新など。後者は、労働や研究活動、福祉活動など。

 努力の結果が自分だけに及ぶ場合は、周囲に迷惑を及ぼさない限り、何を目的にしても結構。また、それを達成するための手段は、合理的であっても、端から見て非合理的で無駄の多いものであってもかまわない。というか、その場合に得られる生きがいは、最終的な「結果」ではなく、むしろ、それを達成するプロセスに「結果」が次々と随伴することによって得られるものと考えられる。四国八十八箇所巡りをする場合などでも、単に八十八箇所を達成するという「結果」だけを目的にするならば、タクシーをチャーターして早巡りをすれば済むこと。そうでないというのは、足で巡りながらいろいろなことを考え、また地元の人達と交流する中で得られる「結果」の蓄積のほうに本当の意義を見いだすためであろう。

 いっぽう、努力の結果が特定の集団に及ぶ場合、さらには公共的な性格を帯びている場合は、努力をした者に対して、その努力に応じた結果が与えられるとは必ずしも言えない。なぜなら、通常、この種の努力は、プロセスではなく成果によって評価されてしまうからである。起業家がどのように努力しても倒産すればそれでおしまい。周囲からいくら「よく頑張った」と慰められようとも新たな資金が供給されるわけではない。農家がどのように努力して白菜を作っても、他の地域で大量の出荷があれば価格は暴落する。好むと好まざるとに関わらず、この社会では、努力がその量だけに応じて評価されることは決してない。

 では、公共的な性格を帯びた努力において、努力量以外に求められるものは何だろうか。それは、おそらく
  1. 努力すべき行動を適切に選択すること
  2. 努力の量ばかりでなく、努力の質(有効性、時として要領のよさ)の向上にも目を向けること
ということに尽きるかと思う。念のため言っておくが、この2点が望ましいことなのかどうか私には分からない。ただ、この社会という前提のもとで「努力し、の努力に応じた結果を得る」ためには、好むと好まざるとに関わらず、それらに目を向ける必要があることは確かだ。がむしゃらに努力するだけでは実を結ぶハズがないのである。

 さて、この連載の本来のテーマである『受験勉強は子どもを救う』かという問題に戻るが、和田秀樹氏は、今回の問題に関連して
...入試の本質とは、単に学力を見るものではなく、自分の能力を把握したり、出題傾向から何を勉強すればよいかと読み取って分析したり、そこから生まれた計画をきちんと実行して自分を律したりといった能力を見るものである[185〜186頁]。
と指摘しておられる。つまり、受験制度とは、ただがむしゃらに勉強する行動を強化するシステムではない。的確な情勢分析力、適性・能力把握、目的達成のための有効な手段の確立といったさまざまな判断能力を磨くシステムとしても機能しているという点を見落としてはならないと思う。

 なお適性ということに関して、毎日の記録(3/14)さんから以下のようなご意見をいただいた。
.....例えば、芸術の 場合、努力と成果は残念ながら、必ずしも比例しないので、芸術系学科の入試では、適性のある人が高い評価を得られるような選抜が必要なのではないかと(あるいは、適性のない人を受け入れない「優しさ」が必要なのではないかと)。 現在、問題になっている医学系学科の入試や、司法試験などについても、同様。おそらく、 文学にも、農学にも、工学にも、同様のことが言えるはず。もちろん、努力が 無価値であることはないので、結局は、努力と適性とをバランス良く評価する ことが必要なのだと思う。適性の有無に関らず、試験対策という一過性の努力さえすれば、合格してしまうような選抜方法は、一見、公平に見えて、個々が持つ違いを無視するという意味で、実は、ものすごく不公平なのではないか、と思う。
 少なくとも私がこれまで論じてきた入試制度というのは、決してセンター試験の合計点だけで一律に合格者を決めてしまおうというものではない。それぞれの大学が出題科目や出題内容を工夫し、多様化させれば、安易に推薦入試とかAO入試にはしらなくても、適性、個性、意欲(のプロセス)は十分に客観評価できるであろうということだ。芸術系や体育系の実技試験にはそれなりの公平性があると思う。適性は努力と独立して存在するものではない。努力機会を多様化することが適性を尊重した公平性を保障する唯一の道であると考えている。

 なお上記の中の医師の適性については、2月18日の日記で指摘したように、むしろ入学後の指導体制のあり方を考慮していく必要があるように思う。
【ちょっと思ったこと】
【今日の畑仕事】
一度も立ち寄れず。
【スクラップブック】