じぶん更新日記1997年5月6日開設Y.Hasegawa |
大学構内で宇宙ステーションのようなユーモラスな形をした花が増えている。ネットで調べたところ、ヘラオオバコであることが分かった。この花に限らず、今まであまり見かけなかった野草が増えているようだ。定員削減で用務員さんが居なくなり、芝刈りの回数が減ったことが最大の原因であるように思う。喜んでいいのか悪いのか.....。 |
【思ったこと】 _00522(月)[一般]「滅私奉公」、「奉仕活動」、「活私奉公」 森首相の「神の国」、「教育勅語」発言に関連して「滅私奉公」という言葉が注目されている。『新明解』によれば、「奉公」とは 奉公:天皇・国家に、一身をささげて仕えること/主家・店などに住み込み、そこの家業・店務の手伝いをすること。とされている。 滅私奉公の精神は、ヨーロッパ近代社会が生み出した近代的自由観に制限を与えるとともに、「私」の根本に利己主義、自己本位主義を想定しているようにも思える。4/21の日記で、内山節氏『自由論』の という視点を紹介した。河合隼雄氏も言っておられたが、「私」や「個人」をどうとらえるかによって、「滅私」の概念も変わってくる。 「公」と「私」と言えば、本年1月6日の日記で紹介した「共和主義にみる『公』と『私』」の問題も考えていく必要がある。川出氏の指摘を再掲すれば 「公」のために「私」を犠牲にすることが、倫理的に価値の高いものであるとの思い込みは、共和主義とは無縁である。自由な政治参加を支えるのは、各人が国家に依存しない生活基盤をもち、国家から自立した存在であるという社会条件である。国なくして個人なし、誰(何)のおかげで君たちは繁栄と安全を享受できると思っているのか、といったたぐいのレトリックは、共和主義の精神を転倒させたものである。日本では「共和主義」は「伝統的な保守派からは象徴天皇制を否定しかねない思想として危険視され、リベラルな左派からはその「国家」中心主義的側面が嫌われるという、不幸な位置にある」点で話題にのぼりにくいことがあるが、「滅私奉公」を考えるのであれば避けて通るわけにはいくまい。 「奉公」に似た言葉に「奉仕」がある。同じく『新明解』で調べると 奉仕:報酬を度外視して国家・社会・人のために尽くすこと。という意味が記されている。「天皇、国家のため」という「奉公」に対して、「国家、社会、人のため」となっている点で若干ニュアンスが違う。いまの時代、奉仕というとすぐ「ボランティア」、ボランティア活動に参加することが奉仕精神の育成につながるように思われがちであるが、これもまた慎重に考えていく必要がある。少し古い引用になるが97年4月21日の朝日新聞対論「本当のボランティア」には、曹洞宗国際ボランティア会事務局長・秦辰也氏と大阪ボランティア協会事務局長・早瀬昇氏による興味深い視点が紹介されている。特に印象に残っているのは、
行動分析的に見れば「滅私奉公」的な活動も強化されなければ増やすことはできない。これはおそらく社会的好子の整備によって実現するが、その場合は「活私奉公」と言うべきものになるはずだ。単に私利私欲を滅するというのは「死人テスト」をパスしない[5/18の日記参照]。死んだ人は奉公はしないけれども、「滅私」は誰よりも得意とするからである。 いずれにせよ、上に述べたボランティア精神の多様性、共和主義からの知見、行動分析的視点等から見るならば、「私」を制限した「滅私奉公」ではなく、「私」を活かす形の「奉公」や「奉仕」が求められるように思う。 |
【ちょっと思ったこと】
反秀才論 新聞の書籍広告で『反秀才論』(柘植俊一、岩波現代文庫)というのを見つけた。そのキャッチコピーによれば、 秀才は「頭が速く」、教育も短くてすむ。反秀才は「頭は強い」が、仕上がるのに時間がかかる。各界に反秀才を見出して、科学的知見を楽しく綴る教育エッセイ。だそうだ。このところWeb日記作者の一部で話題になった「知能」をめぐる議論にとって大いに参考になりそうだ。さっそく注文してみたいと思う。 |
【今日の畑仕事】
ブロッコリー収穫。トウモロコシ消毒。 |
【スクラップブック】
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