じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

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[今日の写真] 後楽園側から見た岡山城(11/10撮影)。





11月11日(月)

【ちょっと思ったこと】


小春日和に大恥をかく

 11日の岡山は最高気温が17.7度まであがった。平年に比べるとわずか0.2度高にすぎないが、このところの寒波が去り、小春日和というにふさわしい暖かさであった。

 そんななか昼食をとりに家に戻る。ドアにカギを入れようとしたが、ロックされていないことが分かり、そのままギーッとドアを開けると、なっなんと

何となく見かけたことのある女の人が私をいぶかしげに見つめており、部屋の中には見慣れぬ家具が置かれてあった。

一瞬、パラレルワールドに飛び込んだのかとドキッとしたが、すぐに原因が分かった。

なんと、私が開けたドアは、3階のおうちだったのだ。4階にある私のおうちと間違えたのであった。

 公務員アパートというのはドアがみな同じ色、形をしており外見上区別がつかない。夜中に酔っ払って帰ってきた男が、早く開けてくれとドアをガンガン叩いていたら、じつは別の家だったという笑い話もあるぐらいだ(真っ昼間に家を間違えたのは私が最初かも)。



 やっとのことで自分のおうちに戻って妻にそのことを話すと、「まあ、私まで恥をかいたじゃないの。どうしてくれるのよっ!」と、しばらくたってから、羊羹とせんべいをもって、3階の奥さんのところに「うちの主人が迷惑かけて申し訳ありません」と挨拶に行ってきた。

 戻ってきてから、どうだった?と話を聞くと、奥さんはお菓子は受け取らずに、

「いえいえ、よくあることですから。うちの子も、よくご近所で迷惑かけていますからお互いさまですよ」

と言われたとか。←−−−−−−−−−−−えっ?





青バラ

 NHKクローズアップ現代で青いバラを作るという話題を取り上げていた。この世の中に未だ出現したことのない青い花のバラを作ろうと、いろいろな挑戦が行われている。伝統的な品種改良により少しでも青に近づけようと努力している人、バイオテクノロジーの力で、ペチュニアの青をバラに組み込もうとする人、などいろいろだった。カーネーションを青くすることでは成功した技法をバラに使うと、赤い花が咲いてしまうとか成長が止まってしまうといった予想外の発見もあった。単に商品としてばかりでなく、色のついた花を咲かせる仕組みを理解する上で、青バラ開発は有意義な研究テーマになりうると思った。




えっ? 大相撲

 きょうは朝からヘマばかりであった。1コマ目の授業では「随伴性の随は、遣隋使の隋と同じですね」などとしょうもないヘマをやるかと思えば、昼には他の家のドアを開けてしまう、さらにハイウェイカードを別の背広のポケットに入れっぱなしにしていて使えず.....。

 そんななか、夕方、学外非常勤講師の出講先から戻るときにいつものようにラジオをつけると、なんと、相撲の放送をやっていた。今どき大相撲などやるハズはない。ラジオまでタイムスリップしてしまったのか、と何が何だか分からずそのまま聴いていると、別段不思議はなかった。大相撲九州場所がすでに日曜から始まっていたのであった。新聞が月曜休刊だったせいだろうか、大相撲が始まっていたということはラジオのスイッチを付けるまで全くしらなかった。

 夕食時にTVで相撲の録画を視たが、結びの一番の時であっても、後ろのほうの観客席はガラ空きのように見えた。こりゃ、責任者の元鷲羽山さん[10/25の日記参照]も大変だろうとちょっぴり心配。

【思ったこと】
_21111(月)[教育]戦後教育の終焉と日本型高等教育のゆくえ(3)市場原理と大学教育

 昨日の日記の続き。今回は「研究セッション報告1」

●「市場原理が大学教育にもたらすもの」 大井玄氏(東京大学名誉教授)

について感想を述べさせいただく。

 レジュメで大井氏は、まず、市場原理を標榜する新古典派経済理論の制度的前提として
  1. 生産手段の私有
  2. 経済行為を行なう経済主体は、その所有する生産要素あるいは生産物を市場に供給し、市場価格によって評価された額を所得として得ること
  3. 経済のプロセスは最終的には個人の行為の集積として分解可能だということ
を挙げ、また倫理学的解釈として、
人間が利己的経済主体であり、市場でその生産物の価格を高めるため努力し、競争し、評価された額をその所得として受け取ることに倫理的正当性を認めるものである。
という原則を示された。そして、この市場原理が大学教育に持ち込まれるということは「教育者も学生もそれぞれ利己的経済主体と見なす」という前提を認めることであり、その原理に基づく改革は
  1. 生産手段は私有化されるため国立大学はなくなる
  2. 教育者は生産者でありその生産物つまり授業の価値を高め学生という買い手を集める努力をしなければならない。買い手がつかない科目や授業の廃止は正当化される。
  3. 学生は利己的目的のため大学教育(生産物)を利用するため「利用者(受益者)負担の原則」により大学経営に必要な費用も応分に負担する。無償の奨学金は原則として廃止される。
といった変化をもたらすことになると指摘された。

 このことによって、大学教育の中味、学生の勉学態度、科学研究がどのように変質するかは、そう簡単には予測しがたい。ところが、幸い?なことに、これを国家レベルで実践し、結果的に芳しい成果が得られなかった実例がある。それがニュージーランド(以下NZと略す)であった。




 NZについての大井氏と大塚氏の報告は、www.ac-net.orgで閲覧できるということなので、詳細はそちらを参照していただきたい。

 報告書にもあるように、NZでは、1984年、労働党が政権をとるや一気に行革が行われた。それはヒトラ−の「電撃戦」に比せられる速さであったという。このうち教育に関しては[いずれも長谷川による抜粋]
  • 教育改革の根本理念は、教育も規制を廃止した市場原理により選別されていくべきというものである。すなわち教育は、需要と供給の力が働く場に提供される商品(commodity)であり、技能にたけた科学技術に明るい集団を養成することを主要目的とすることになった。
  • 個人はいずれも自立し、自分にとって最良の判断、選択、意思決定を行う能力をもつ存在である。そこには、欲するものを追求する競争を行い、国家による干渉を最小に抑えるならば、社会全体として最大の利益が生ずるという期待がある。
  • 教育も研究も経済活動として定義される。大学や研究所も、経済主体が利用し、最も効率的生産をあげるべく経営・管理・組織などを整える、という民営化された企業として捉えられ、他の同様の企業と市場において競争することになる。
  • 教育と研究は、別種の経済活動として区別され、それぞれの市場において競争する。したがって、「研究市場」においては生産物の購入はできるだけ一元化された形で行うべきである。換言するならば、研究資金の配分はできるかぎり同一機関で行うのが望ましい。
  • 研究の究極の目的は、NZを「知識社会(knowledge society)」にすることである。
といった人間観、教育観、研究観に基づく改革が断行された。これらはとうぜんいろいろな弊害をもたらす。いくつか抜粋させていただくと[【 】内は長谷川による補足]
  1. 【研究費の】配分は研究過程に対してではなく、予想される結果が、科学的には勿論、どのくらい「社会的に適切か」に応じてなされる。「社会的適切さ」とは最終利用者である企業の要望によって決まるから、基礎研究は構造的に軽視されることになる。
  2. 【公共有益科学基金】PGSFには研究者の給与も含まれているため、2年ごとにあらたに応募することになっている予算が取れなければ、給与がなくなることになる。研究者の地位は極めて不安定になった。
  3. 授業料は大学ごとに決められるようになった結果、国立大学間での学生のとり合いが激しくなった。
  4. 授業料は毎年のように値上げされるようになったが、学生数が少なくなって費用を回収できない学科は廃止・削減の可能性が高くなっている。
  5. 優秀な学生は自然科学にこなくなり、卒業後すぐ給料が得られると思われる商学部や観光学科に殺到することになった。
  6. 市場の需要があるという理由で、応用科学の名のもとに占星術やホメオパシ−のコ−スを開講する動きさえあるという。
  7. 【研究者の身分が不安定になったことで若者を怖じけさせる雰囲気(intimidating atmosphere)が生じ】、社会科学、人文科学、語学、歴史学、女性学、基礎科学(とくに理論物理学や化学)への志望者が少なくなった。
  8. 利己的経済主体であると教えられたNZの若者が、高失業率かつ市場規模の小さいNZよりも、US、UK、オ−ストラリアなど、英語圏でもより大きく、かつより高い利潤があげられる市場へ移住するのは自然な傾向であろう。
  9. 学生数をふやすための教育努力は、同時に研究に割く余裕が減少する可能性が大きくなることを意味する。このジレンマに対応するための方策は、たとえば修士課程、博士課程の院生の数を増やし、結果が予想されやすい応用研究の課題を与え実質的な研究は学生にやらせ、最後に教師が手を加えて体裁をととのえるという、「研究の水増し」を行うのである。
  10. 【研究における厳しい競争の結果】情報の価値が上昇したため、以前は自然に行われていた情報交換が減り、いわば知識や情報のかこい込みのような現象が起こった。研究が競争的経済行為という認識が徹底してきたのである。
  11. 地球という閉鎖系の場において、利己的利益追求を無条件に容認することの危険があげられる。それは自己と他者、自己と環境を構成するもろもろの事物との関係性の無視に連なる危険である。
  12. NZの大学生は、高くなる一方の授業料を支払う理由として、大学は卒業後の収入を増やす目的で学生が利用する施設であり、それを利用するかしないかは個人の自由である、それ故、もしそれを利用するならば受益者負担の原則を守る義務が生じると説明されている。大学進学の意義がこのように限定されたことは、高等教育のひとつの役割である、知的好奇心にもとづく様々な方向への探究の道は閉ざされる可能性を大きくしている。
 以上、かなり広範囲にわたり引用させていただいたが、もとより、これは、長谷川が備忘録がわりに抜き出したものである。本旨はあくまでwww.ac-net.orgで閲覧していただきたい。




 市場原理は、よりよい教育サ−ビスをもたらし、、教師的プロフェッショナリズムを向上させるという点ではポジティブな効果をもたらすが、以上述べられているような様々な弊害をもたらすことにも注意を向けなければならない。時間が無くなってきたので、最後に引用した12項目のうちいくつかについてコメントさせていただくと
  • (5について)学生が商学部や観光学科に殺到するというのはNZの特徴であろう。日本ならどう変化するだろうか。
  • (6について)占星術やホメオパシ−のコ−スまで開講されるとなれば笑止千万だ。心理学科であるなら、「性格占い」、「読心術」、「超能力」などを作れと言うことか。もっともこういうコースは、需要があるなら必ずどこかでできる。占い師養成学校を大学で開講するメリットはあるのだろうか。
  • (7について)今の日本でも、オーバードクター問題や任期つき助手などを考えれば研究者は、十分すぎるほど不安定である。それを承知で研究者を目ざすのは致し方ない。もっとも、私自身の過去(オーバードクター歴6年)を振り返っても、専修学校の非常勤講師の口などはけっこうあった。
  • (11について)これは根本的には、交換価値を基盤とする市場経済全体の問題かと思う。11/3の日記でもとりあげた「互酬」に基づくコミュニティ再生の原理を重視するエコマネーの発想を取り入れれば解決するかもしれない。
  • (12について)これま、大学で学ぶということについての付加的好子(収入)と行動内在的好子(知的好奇心を満たす)についての問題かと思う。要するに、勉学行動に対してどのような行動随伴性を配置するかということだ。このあたり経済学ではなく行動分析の視点がぜひとも必要だ。
 少子化、定員割れによる倒産という事態が進めば、好むと好まざるとにかかわらず、大学はかなりの程度で市場原理の荒波をかぶることになろう。それゆえ、市場原理を大学教育に導入することが是か非かという抽象的な議論に終始するのではなく、大学が市場原理のもとで淘汰される過程において、どういう弊害がおこりやすくそれをどう克服するかという現実的課題として対応していくことが必要ではないかと思った。

 なお、この大井氏のご報告に対しては、大学評価・学位授与機構の米澤彰純氏からのコメントがあり、シンガポールの事例なども紹介された。

 もう1つ大井氏のお話の中で「1つの社会的事象は他のすべての事象とつながっている。1つの事象が独立して存在するわけではない」というようなフレーズがあったと記憶しているが、これは、心理学の研究対象のすべてについても当てはまることだ。社会事象の一部を切り出して、独立変数と従属変数の関数関係だけで論じるのはやはり限界がある。大学教育論において心理学があまり貢献してこなかったのもこのあたりに原因があるかもしれない。