じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

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[今日の写真] 千波湖畔の「鳥シリーズ」最終回。ここに住み着いている鳥たちは、人間をそれほど怖がらず、かといって、ハトやカモメのように餌をねだって群がるわけでもない。人間たちと適度の距離を保ち、適度に「野生らしい」生きざまを見せてくれるところに魅力があるのではないかと思う。
帰り際、水戸から東京方面に戻る電車の中からもう一度、千波湖が見えた。またいつか水戸に来ることがあったら、真っ先に鳥たちに会いにいきたいと思う。


8月1日(月)

【ちょっと思ったこと】

前期の授業、やっと終了/単身生活開始

 海の日が7月第三月曜に設定されたことなどが影響して(7月17日の日記参照)、前期の月曜日の授業は、8月1日が最終回となった。今後の予定としては、期末試験採点と成績評価、前期提出修士論文査読、全学会議、大学構内環境整備作業、職員定期健康診断などの仕事や行事が控えているが、これで実質的な夏休みが開始されたと言ってもよい。

 毎年のことではあるが、8月上旬は家族の帰省により単身生活をおくらなければならなくなった。昨年8月14日の日記にも書いたように、「既婚者の単身生活のQOLは独身時代より劣る」というのが実感である。昨年はまだまだ自炊などを続けていたが、今年はそれすら面倒になってきた。8月1日は、昼食、夕食とも生協食堂を利用した。生協食堂のメニューは昼食時のほうが豊富なので、それに合わせて、昼食はたっぷり(←といっても中華丼とサラダバーの総菜各種)。いっぽう夕食のほうは、冷やしそばとミニトマトと海藻サラダのみであっさりと済ませた。QOLは低下するが、生活習慣病予防には最適かと思う。

【思ったこと】
_50801(月)[心理]行動分析学会水戸大会(2)“罰なき社会”の探求(2)懲らしめと素朴心理学

 昨日の日記に引き続き、日本行動分析学会第23回年次大会3日目の大会実行委員会企画シンポジウム:

司法において心理学に期待されるもの、「罰なき社会」の探求(What is expected of science of behavior in judicial field, search for a non-punitive society.)

について感想を述べることにしたい。

 さて、昨日の日記とは時間が前後するが、シンポの冒頭では森山哲美・大会実行委員長の挨拶に引き続き、伊田氏による企画趣旨説明があった。

 伊田氏はまず、法のシステムというのは、「素朴心理学」ないし「素朴行動学」に根ざしているということを指摘された。また、法と心理学に関しては最近

●村井敏邦編 (2005).刑事司法と心理学 法と心理学の新たな地平線を求めて.日本評論社.ISBN 4535514682

という書籍が刊行された。このほか、法と心理学会というのも設立されており、今年の10月には立命館大学で第6回大会が開催される予定となっている。

 伊田氏によれば、行動分析学が刑事司法との関わりで貢献してきた領域としては
  • 矯正教育
  • 薬物濫用防止
  • 環境犯罪学
が挙げられる。もっとも、今回の話題提供の中でも言明されたことでもあるが、少年院における処遇や退院(出所)後の社会内処遇においては、特定学問分野の研究成果が応用されているわけではない。大部分は、少年院教官や保護観察官、保護司らの経験に依るところが大きいものと思われる。

 伊田氏の企画趣旨説明の中ではもう1つ、江戸時代の人足寄場の話が面白かった。

●滝川政次郎 (1994).長谷川平蔵:その生涯と人足寄場.中公文庫.ISBN 4122021170.【但し、現在は品切れ。朝日選書からの同一タイトルの本も品切れ。】

によれば、1790年頃の人足寄場では、
  • 心学講話
  • 労働量に応じた賃金
  • 更正期のレベルに応じた、異なるデザインの囚人服
  • 社会復帰への準備プログラム
など、罰的統制以外の方法による更正手段が多様に用意されていたという。長谷川平蔵については資料が少なく、伝聞やフィクションもかなり紛れ込んでいるのではないかと推測されるが、とにかく、スキナーの主張よりずっと以前、スキナーの発想に近い更正プログラムが実践されていたというのは驚くべきことだ。




 さて、昨日も述べたが、スキナーの言う「罰なき社会」は、国家レベルでの社会設計、もしくは、現実社会から隔離されたユートピアの中での集団生活の理想像に関わるものであった。いっぽう、伊田氏の御指摘にもあるように、刑事司法は、学問として法体系がいかに研究され整備されようとも、その根源は素朴心理学に根ざしている。

 例えば、ある者が犯罪を犯した場合、その者は何らかの形で懲らしめられなければならない。懲らしめることが再犯防止に有効かどうか実証されていなかったとしても、被害者の素朴な心情として、無罪放免というわけにはいくまい。特に殺人事件の場合、かつては被害者遺族による仇討ちが認められていた時代があった。赤穂義士の仇討ちは、テロ行為ではなく美談として語り継がれていることからも分かるように、国家は、個人に代わって、被害者の無念を晴らすという役割を演じなければならず、これは、実証や有効性とは別次元で議論されなければならない問題である。

 もう1つ、社会の安全を脅かす者は、その社会から隔離されなければならない。要するに、禁固刑や懲役刑というのは、社会が安全を保つためには最も有効な方法である。服役者の更正に有効であろうとなかろうと、とにかく、その人物が隔離されている限りにおいては、その社会内部で犯罪が再発する恐れは無い。かつての「島流し」も同じ発想であった。また、現在でも、外国人が犯罪を犯した場合には母国に強制送還することがありうる。外国人の犯罪者を更正させても国家としてはコストがかかるばかりで何の益も無い。とにかく二度と入国させなければその国の社会的安全は確保されるのである。

 というようなことを考えるとやはり、スキナーの「罰なき社会」原理を刑事司法に持ち込むことには原理的も現実的にも無理があるように思われる。今回のシンポでは、むしろ、刑務所と異なる目的を有する少年院において、罰的統制以外の手段、特に、「望ましい行動を強化する」という手段がどういう面で有効性を発揮するのかを具体的に検討すべきであった。佐藤方哉先生のせっかくの「スキナー語録」は、高齢者の生きがいや、産業労働における働きがいを検討するようなシンポで紹介されたほうがインパクトが大きかったように思えた。

次回に続く。