じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
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月齢20.6の月とモミジとナンキンハゼの実。10月12日の日記でも取り上げたことがあるが、写真に写る月は、我々がそのように見えていると思っている月の大きさより遙かに小さい。平山郁夫の「楼蘭の月」や東山魁夷の「月映」などの作品では、月の大きさは、客観的な視直径の10倍〜100倍くらいに誇張されて描かれる。 (この写真では、遠近感が無いことで、逆に月が小さく見えてしまうという錯覚も起こっているかもしれない。遠近感が無いことで後ろの人物が実際より小さく見えてしまう錯覚についてはこちらに参考写真あり。) |
【思ったこと】 _b1215(木)日本質的心理学会第8回大会(20)内田樹氏の大会記念講演(4)原発は一神教という議論 昨日の続き。 昨日も述べたように、内田氏は、原発事故に関連して「荒ぶる神の火を鎮めるには、ちゃんとした鎮、魂、「原発供養」が必要なんだよね。それは廃炉の作業にかかわる人にも繋がってくる。」とか、橋口いくよ氏の「橋口 原発にはもう祈らずにはいられなかった。祈るべきだと心から思ったし。祈るしかできないなんて、ひ弱なこと言ってられないんです。」というような考え方に言及された。さらに、中沢新一氏の「原発は日本における一神教だった」というお考えにも言及された。 ネットで検索したところ、どうやら、中沢氏のお考えは、 内田樹・中沢新一・平川克美『大津波と原発』朝日新聞出版 の中で語られているらしい。中沢氏と内田氏の会話の中で語られた論点は、
上掲の本を直接拝読したわけではないし、また、私自身は「祈る」という習慣を一切持たない人間であるので、上掲の議論については、納得できる段階には無い。但し、一般論として、大津波や原子力といったエネルギー自体は、そもそも人間の力を遙かに越えた強大な存在であり、それを手なずけようなどと思うと、いずれ祟りがあるという考え方には同意できる。大津波の場合も、これだけの高さの防波堤を作っておけばゼッタイ大丈夫だという過信が、避難行動を遅らせた一因になっていることは確かである。 もっとも、原発事故の対応の拙さを一神教云々と関連づけることについては、どうみてもこじつけに過ぎないように思える。結果論になるが、3.11直後に迅速に対処できていれば、あのような深刻な事故や広範囲にわたる放射能汚染は起こらなかった。その主要な原因は、日本人的な責任分散、問題の先送り傾向にあるのであって、この部分に宗教や霊性を持ち込んでも建設的な提言には至らないように思える。 次回に続く。 |