じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
秋深まる農学部農場内のコスモスと田んぼ。一昨年の写真が、↓にあり。 |
【思ったこと】 151011(日)『嫌われる勇気』(56)信頼と信用の違い 昨日の続き。 最終章(第五夜)のはじめのあたりでは、「他者信頼」に関係して、信頼と信用はどう違うのかが論じられていた。要約引用すると以下のようになる。
ここまでのところで私の感想を述べさせていただく。まず辞書的な区別は以下のようになっていた。
いずれにせよ、信頼には「頼る」という意味が含まれているようだが、『嫌われる勇気』の中では、どう頼るかについては直接は論じられていない。おそらく、他者に頼るよりは他者貢献の気持ちを重視しているためであろう。 次に、心理尺度でよく言われる「信頼性」とも、あまり関係が無さそうである。「信頼性」というのは、秤を例にとれば、何回測っても同じ値をとるというような意味。対人関係で言えば、態度が一貫している人は信頼性が高いということになる。一貫して嘘をつく人や、あらゆる事柄について一貫して頼りにならない人も、定義上は信頼性が高いということになるが、『嫌われる勇気』では、そのような意味には使われていない。 とにもかくにも、私自身は他者と関わることを最小限度にとどめたいと思っているので、相手が信頼できる人であっても信頼できない人であっても、そのことによって態度を変えることはない。時と場合によって、信頼できる時もあれば信頼できない時もあり、それ以上でもそれ以下でもないと考えている。そういう意味では、「いっさいの条件をつけないで相手を信頼する」という以前に、そこまで関わる必要は無いのではと考えてしまう。 もちろん、世の中で生きていくためには、他者への信頼が不可欠という場合もある。飛行機に乗っている時はパイロットを信頼するほかはないし、手術を受ける時は医者を信頼するほかはない。レストランで食事をする時にも、この料理は安全であると信頼するほかはない。但しそれらは、消極的な意味での「信頼」、上掲の言葉で言えば「いちいち懐疑的にならない」という程度の「信頼」に過ぎない。 けっきょく、人という単位で信頼するかどうかではなく、その人が行う個々の行動について、状況や文脈を斟酌したうえで信頼することになる。となれば、あくまで条件をつけての「信頼」なので、上掲の趣旨には反することになる。 ちなみに、ペット好きの中には、人間よりもペットを信頼しているという人たちもいる。園芸好きの中には、人間よりも植物を信頼しているという人たちもいるだろう。私自身も、動物や植物、あらゆる自然現象については、かなりの程度で信頼している。というか、それらを相手に条件をつけても意味はない。自分がいずれ死ぬということも自然現象として捉えれば別段じたばたするものではなかろうと思う。 不定期ながら、次回に続く。 |