Copyright(C)長谷川芳典 |
※クリックで全体表示。 |
7月4日の夜、南東の低い空に丸い月が輝いていた。月齢は16.1。前日の10時27分に月の赤緯が最南となっており、仰角が小さいため、ベランダの手すりに咲くグロリオーサ【写真上】や、世界三大黄金像の1つ『岡山の大黒天』【写真下】とのコラボを楽しむことができた。 |
【連載】映像の世紀バタフライエフェクト『ビートルズの革命』(4)オノ・ヨーコ、コピーバンド、青の時代へ 昨日に続いて、NHK総合『映像の世紀バタフライエフェクト』で放送された、
その前に、昨日の日記で「このことでふと気づいたが、いま挙げた中の「イマジン(Imagine)」はビートルズの曲ではなく、ジョン・レノンがソロ活動を始めた後に発表された曲であった。」と記したが、過去日記を参照したところ、1999年7月19日の日記に、 ●国歌の法制化をめぐっては「『上を向いて歩こう』こそが日本が世界に誇る最高のメロディだ」とか、「オノ・ヨーコ氏が著作権をもつ『イマジン』を国歌にしよう」(菅原将人氏、7/20朝日新聞文化欄)などという声もあるが、元気のよさだけで選ぶならこの「ラジオ体操の歌」なんかがピッタリかと思う。 と書いていたことからみて、この時点で『イマジン』はジョン・レノンとオノ・ヨーコの歌であることを知っていたことが確認できた。なおオノ・ヨーコさんについては、2000年12月8日や2009年11月16日の日記でも、「地球時間『ヨーコ・オノの素顔』」や「スタジオ・パーク」という番組に関連して取り上げさせていただいたことがあった。 本題に戻るが、後編ではまず、1964年、「ビートルズ」のコピーバンド『American BEETLES』の公演がホンモノと勘違いされ、ホンモノであるかのようにかき立てたマスコミの謝罪文が掲載された、というエピソードが取り上げられた。なおウィキペディア英語版では『American BEETLES』は甲虫の名前の項目しかヒットせず、Bingに尋ねたところでは、 「american beetles」は、ビートルズのコピーバンドの一つで、アメリカ合衆国のバンドです。ビートルズの曲を演奏するバンドとして、1964年にフロリダ州ウェストパームビーチで結成されました。123という回答をいただいた。ついでに「本物のビートルズから著作権侵害で訴えられたことはなかったのですか?」と尋ねたところ、 ビートルズの楽曲を演奏する「american beetles」について、本物のビートルズから著作権侵害で訴えられたことがあるかどうかについて調べましたが、そのような情報は見つかりませんでした。123 ただし、ビートルズの楽曲を演奏する場合は、著作権法に基づき、JASRACなどの著作権管理団体から許諾を得る必要があります。12とのことであった。また日本国内のコピーバンドについては、 日本には、大学のサークルなどを中心に、海外のバンド、とりわけフォークグループのコピーバンドが増えたとされています。2 例えば、ビートルズのコピーバンド「甲虫楽団」があります。1 また、1970年代半ばに活動していた日本のロックバンド「ザ・バッド・ボーイズ」は、ビートルズのコピーバンドとして知られていました。3とのことであったが、私自身は音楽に興味が無かったこともありいずれのバンド名も耳にしたことは全く無かった。 いっぽう本物のビートルズは1966年のサンフランシスコ公演を最後にステージに立たなくなっていた。4人は揃いのスーツを脱ぎ捨て、ヒゲをはやし、アイドルであることをやめ、スタジオでの楽曲制作に没頭した。その音楽は鉄のカーテンの向こう側にも影響を与えた。ソ連では危険を冒してビートルズの曲が売買され、また長髪の若者は見つかり次第丸刈りにされた。しかしその影響は自由を奪われていた若者たちに浸透し、のちのペレストロイカに影響を与えた。 ビートルズは8カ月にわたり姿を消し、ファンの熱も急速に冷めていったが、1967年6月、EMIスタジオで行われた世界同時生中継『アワ・ワールド』で『ALL You Need is Love』のレコーディングが披露された。同じ月には、ライブ休止後初のアルバムが発売された。それまでは騒音と言われることも多かったビートルズの音楽は、インド音楽、クラシック、シュールレアリズムなど古今東西の文化を取り入れた芸術に進化していたと紹介された。アルバムのラストナンバー『A Day In The Life』はビートルズの最高傑作であると評価する人も多いという。レコーディングには40人ものオーケストラが参加しており、もはや4人だけのライブでは実現できない高度な音楽になっていた。アルバムの裏には曲の歌詞が印刷されていたがこれは当時では考えられないことであった。アルバムはイギリスで23週一位になるなど世界中で大人気となった。いまも世界最高のロックアルバムの1つに数えられているという。 ここでいったん感想を述べさせていただくが、上記の1966年〜1967年といえば私にとってはちょうど中学生の頃であった。私自身にとってはビートルズは相変わらず騒音に過ぎなかったが、同級生の中には、ビートルズなのか他の音楽なのかは未確認であるものの、何らかの影響を受けて、その後、著名な編曲家になった人もいた。 なお、上掲の1967年6月のアルバムのジャケットは、裏面が赤色の背景になっており、一瞬、これぞ『赤盤』に相当するものと思ったが、こちらによれば、通称『赤盤』、『青盤』というのはいずれもビートルズの解散から3年後の1973年4月にアナログLPで発売されたものであることが分かった。『赤盤』は1962年から1966年までの初期の26曲が、また『青盤』には1967年から1970年までの28曲が収録されているとのことであった。詳しくはリンク先のYouTube動画を参照。 次回に続く。 |