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台風10号による大雨の被害が懸念されるところであるが、NHKニュースなどの地域別の雨量予想などで、関東、東海、近畿、四国、九州などの地域と異なり、中国だけは「中国地方」というように一貫して「地方」がつけられていることに気づいた【但し、中国地方と四国地方を合わせて呼ぶ時には「中国・四国」と呼ばれることはあったと思う】。 中国地方に限って「地方」をつけるのはおそらく、中華人民共和国と混同されないためと推測される。確かに「今から四国旅行に行ってきます」と言われれば香川・愛媛・高知・徳島の4県がすぐに浮かぶが、「今から中国旅行に行ってきます」では、岡山・広島・山口・鳥取・島根5県ではなく中華人民共和国を旅行すると思われるはずだ。もっとも画像のような予想雨量の一覧では、『中国』と書いてもまさか中華人民共和国の雨量だと思う人は居ないと思う。 ウィキペディアによれば、『中国地方』の由来ははっきりしないが、一説には古代、畿内を中心に令制国を「近国」「中国」「遠国」に区別したとき、この地方のほとんどが「中国」に相当したからだとされているという。いっぽう、大陸中国については、 一方現在混同しやすい大陸中国のことは、仏教界では古代インドが中国を称した「チーナ」の漢語訳「支那」「震旦」「真丹」を用いており、日本の仏教界でもこれらの用語を用いてきた。仏教界以外では、「唐土(もろこし)」の用語も用いられていた。江戸時代中期に西欧での呼称Sinae(ラテン語)の当て字として仏教界で用いられてきた「支那」が発見され、明治期以降、歴代の王朝名とは別に、地域的呼称、通時代・王朝的汎称として大陸中国を「支那」と言い換えることが行われ、日本人にとっての「中国」は日本の「中国地方」の意味合いが強まった。という記載がある。 ちなみに、岡山には中国銀行があるが、中文では、『中国銀行』という呼称も用いられているほか、混同を避けるため、『日本CHUGOKU銀行』と称する場合もあるという。過去日記でも取り上げたことがあった。 このほか、こちらにも関連記事あり。 |
【連載】『3つの自己』の再考(3)視点の切り替え 8月23日の続き。 私が考える2つ目の自己体験は、自己と他者の視点の切り替えである。 同じ環境世界に住んでいても、自分と他者は異なる情報を利用して行動している。 最もシンプルな違いは、それぞれの人の体の内部で生じる感覚、例えば頭痛や筋肉痛、空腹などの違い。頭痛を感じているのが自分だけ、親やきょうだいは感じていない、という違いはかなりの幼少期でも体験される。 サリーとアン課題で知られるように、子どもは、色々な体験を通じて、自己と他者が異なる視点で環境世界を捉えていることを習得していく。その最もシンプルな事例は、お菓子を別の場所に隠したという情報を持つている自分と、それを知らなかった他者では、次にお菓子のありかを探す場所が異なるというようなもの。 なお、形式的には、将棋、囲碁などで対戦相手の次の手を読むのも他者の視点に立つことにはなるが、手筋の変化の場合を尽くすだけであれば、単なる論理プロセスの連鎖を挙げているだけであって、視点の概念を持ち込む必要はないように思う。 組織、民族、国といった単位でも、集団内部で共有されている情報が異なっている場合もある。言論が統制された独裁国家では、独裁者を崇めるような情報で塗り固められる場合などがこれに当てはまる。但し集団の内部と外部で異なる価値観が共有されていたとしても、それだけで「私たち」というような2人称的な「自己」が体験されるかどうかは何とも言えない。 以上に述べた内容は、ACTで言う『文脈としての自己』と殆ど同じ内容かもしれない。もっともACTでは視点の切り替え、例えば「あなたは、その時、そこで、○○した」というような視点を別の視点に切り替えることにも言及されていたように記憶している。 俳優さんが役になりきることも視点の切り替えの一種と言える。しかしどんな名優であっても、役中の人物に変身することはできない。将棋のように論理的な視点切り替えは可能であっても、他者の身体に乗り移ることはできない。このあたりに、自分の視点から周りを見渡すことの特異な「自己感」がある。 ACTではさらに、観察者としての自己」 、「超越した自己」が想定されている。私が理解している限りでは、視点が柔軟に切り替えられ、さらに瞑想を重ねれば、自分の体内の様子や思考・感情が派生する様子も観察できるようになるらしい。他の健康なプロセス(e.g.,アクセプタンス、デフュージョン)をさらに促進 すると、こうした自己体験の域に達するという。 次回に続く。 |