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台風10号は九州のほか遠隔豪雨により各地に被害をもたらしたが、どうやら9月2日朝までには勢力を弱め、熱帯低気圧となる見込みとなった。もっともレーダーを見るとまだまだ赤色の強い雨域が各所に分布しており、まだしばらく警戒する必要がありそうだ。 |
【連載】『3つの自己』の再考(4)概念化された他者(1)概念化された人同士の付き合い 昨日の続き。 私が考える3つ目の自己体験は、ACTで言う『概念としての自己』(『物語としての自己』)に近い。但し、以下の点が異なっている(かもしれない)。
ここでいったん自己の話題から離れて、私たちが普段どのように他者と接しているのかに目を向けてみよう。 まず、そもそも自分や他者は昨日の自分や他者と必ずしも同一であるとは言い難いという点を理解しておかなければならない。何かと何かを同一であると見なすというのは、人間の都合(有用性)によって決められるのであって、絶対的なものではない。相手の人は昨日と今日では多少は変わっているかもしれないが、わざわざ初対面の自己紹介が必要であるほどには変わっていない。そこで、その相手についてあらかじめ「この人は○○というタイプだ」と特徴づけておいてそれに見合った接し方をしたほうが効率的になる。 さらに、この社会では、時間が経過しても肉体は連続的に存在し、一人の同一人物として扱われるようになっている。
以上からも言えるように、私たちのあいだの人づきあいというのは、同一人物として物語化された相手とのお付き合いということになる。 私たちは今ここにいる生身の人間同士としてではなく、日々の交流を通じて特徴づけられた概念的存在同士として語り合い、協力しあい、時には喧嘩をしたりしている。喧嘩をしてもすぐ仲直りできるのは、概念化された両者が全体としてうまく交流しメリットをもたらしているからにほかならない。 以上の人間関係は、組織の中での公的関係のほか、恋愛・夫婦関係にも当てはめることができる。熱烈な恋愛にはまると交際相手が世界中の誰よりも魅力的に見えてしまうのは、生身の相手に理想像を重ねて物語を作り上げるからにほかならない。 ACTでは、概念としての自己に縛られる(認知的フュージョン)ことは精神的苦痛を生むと考えられているようだ。言語を巧みに操る人間ではこの言語プロ セスが自動的に起こり、自己概念への囚われが起こるとも論じられている。確かに自己や他者についての行き過ぎた概念化、固定化、絶対化は、好ましくない対立や嫌悪の悪循環をもたらす。しかし、上に述べたように、自己や他者の概念化にはそれなりのメリットがあるし、そもそも概念化せずに接するなんてできっこない。人はみな、初対面の自己紹介の時から相手を概念化する作業を自動的に開始しているのである(不特定多数のお客さん相手のように、特定の関係は築かず機械的に応対する場合を除く。) なお、昨日と今日の他者を同一に扱う行動自体は、言葉を持たない動物でも可能であるように見える。例えば、よそ者には激しく吠えかかる猛犬でも飼い主には従順。またハチ公は渋谷の駅前で何年も飼い主の帰りを待ったと伝えられている。 もっとも、こうした犬の行動は概念化された『飼い主』を持たなくても説明できそうだ。猛犬が飼い主に従順なのは、飼い主に近づくと同じニオイがするため、単に同じ刺激状況で同じパターン(ここでは従順な行動)を自発しているだけなのかもしれない。逆に、刺激状況や文脈が異なれば、たちまち別人と見なされる可能性がある。動物園の飼育員がいつもはおとなしいトラに突然襲われるという事故も、何らかの文脈の違い(飼育員の服装やニオイ)が原因になっていたと推測される。 ハチ公の場合も、飼い主という概念を待ち続けたのではなく、毎日渋谷駅前まで出かけるという行動が駅周辺の関係者の手て、知らず知らずのうちに強化されていた可能性が高い。 人間以外の動物は、親子という概念も持っていない。ホルモンの影響で親は一定期間、丁寧に子育てをするが、何らかの原因で子どもが死ねば、弔いもせずにその場を離れるだろう。丁寧な子育ては子どもの反応との相互で進んでいく。死んでしまった子どもの亡骸はただの物体であって、それ以上でもそれ以下でもない。 ということで、他者を概念化することは言語行動に依存している。すでに亡くなった人や、小説や映画の登場人物なども生身の人間と同じように概念化され、日々の行動に影響を与えている。 次回に続く。 |