じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 映画『DESTINY 鎌倉ものがたり』の黄泉の国。黄泉の国は様々な映画やドラマなどで描かれているが、私が見た限りではこの映画が最も魅力的。中国・湖南省の『鳳凰古城』がモデルになっているということで、死後の世界としてではなく生きているうちに一度訪れてみたいという気もするが、こちらの案内写真などを見るとすでに観光地化が進んでおり、地球離れした辺境地域を好む私にとっては期待外れになりそう。
 なお映画の中で死神(安藤サクラ)は次のように語っていた。
  • 【黄泉の国は】人の感じ方によってその姿は変わるらしいんですがね。だから、ここは先生【一色正和】の思い描いた「黄泉の国」なんです。そんなに悪いところじゃないんですよ、ここ。人間には誤解されてますがね。黄泉の国っていうのは、次の人生に生まれ変わるまでのちょっとした休憩の場所なんです。生前によっぽど悪いことしてなけりゃね。
  • 【地獄のほうを指差して】あれだって生前の罪の意識が作り出した場所なんですけれどね。
 「人の感じ方によって姿が変わる」というと、クオリアが連想される。黄泉の国も臨死体験のなかのクオリアのようなものか。

2025年03月1日(土)




【連載】最近視聴したYouTube動画(10)岡田斗司夫さんの動画をもとに宗教について考察する(8)「絶対に無いとか必ずあるといった議論」、「死後の世界は記述できるか?」

 2月27日に続いて、宗教について岡田斗司夫さんの動画をネタにした考察。

 さて、前回の日記で「全てのカラスは黒い(ヘンペルのカラス)の話題をリンクしたが、考察は述べていなかった。論理学上の難しい議論はあると思うが、私自身はそもそも「全ての○○は××だ」とか、「△△は絶対に無い」といった主張自体が現実世界の記述には馴染まないと考えている。
 リンク先にも写真が掲載されているように、この世界ではごく稀にアルビノの白いカラスが見つかるらしい。カラスに限らないが、様々な動植物には遺伝子レベルでの変異があり、白いカラスを黒いカラスと同じ仲間に入れれば「カラスは黒いが稀に白い」ということになるし、別の種に分ければ「カラスは黒い。白いカラスは黒いカラスとは別物」ということになる。もちろん骨格や遺伝子型の特徴に基づいて分類される以上、恣意的な分類は意味をなさないが、何度も述べているように、AとBを同じ仲間に含めるか、それとも別のものに分けるかということは有用性に依存している。

 もとの話題に戻るが、死後の世界があるかないかは普通、
  1. 死後の世界は絶対に無い。
  2. 死後の世界は必ずある。
という二者択一の議論として提起される。この場合、1.の主張は、死後の世界が存在することを示す例が1つでも見つかれば粉砕される。また2.の主張は、経験的事実から否定することは難しい。死後の世界がまだ見つかっていなくても、この先見つかるかもしれないので、「必ずある」は証明できないが、だからといって有限個の経験的事実をもって否定することもできない。【「すべての人は必ず死ぬ」も同様。これまでのところ不老不死の人は一人も居ないが、この先そういう人が出現する可能性を経験的事実で否定することはできない。】
 しかし、上掲のカラスの例を考えれば分かるように、「全ての○○は××だ」とか、「△△は絶対に無い」といった主張自体が意味をなさない可能性もある。宗教によって、
  • 善行を積んだり修行をした人だけが天国に行かれる。
  • 善人でも悪人でも念仏を唱えれば全員が天国に行かれる。
といった主張があることはしばしば耳にしているが、もしかすると、
  1. 110歳まで生きた人は天国(極楽浄土)に行かれる。そうでない人は消滅する。
  2. 死者はくじ引きにより1/100の確率で天国(極楽浄土)に行かれる。外れた人は消滅する。


かもしれない。もっともこれら1.や2.では宗教が成り立たない。1.や2.が主張されないのは間違っているからではない。そういう主張をする宗教があったとしても信者が集まらず宗教活動が維持できないからに過ぎない。
 でもって、上記1.や2.の場合、仮に死後の世界があったとしても殆どの人には無縁であり、実質的には「死後の世界は無い」と同じことになる。つまり、死後の世界が存在することを示す例が1つでも見つかったとしても、99%の人には無関係であり、あってもなくてもどうでもいい世界ということになる。

 このほか、死後の世界があったとしても、現実世界の言葉でそれを記述できるかという問題がある。ギリシャ神話でも日本の神話でもそうだが、宗教が描く神々の世界というのは人間世界と大差無く、神々は人間と同じように怒ったり欲望をいだいたりして、最終的には人間世界と同じ倫理基準のもとで勧善懲悪の結末を迎えたりする【ギリシャ神話の神々はずいぶん勝手なことばかりしているようにも思えるが】。
 神々の世界が人間の世界と似ているのは、言うまでもなく神話が人間によってこしらえたものであるからで、倫理基準の異なる世界、例えば『気楽に殺ろうよ』のような世界は、藤子・F・不二雄先生でないと描けない。
 さらに極端に異なる世界として、死後の世界がアメーバーが棲むような世界であったとしたら、それが存在したとしても言葉では記述できないし、魂の同一性を保つことも難しい。

 次回に続く。