じぶん更新日記

1997年5月6日開設
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 妻の雛祭りグッズ。年々種類が増えているような気がする。

2025年03月3日(月)




【連載】最近視聴したYouTube動画(12)岡田斗司夫さんの動画をもとに宗教について考察する(10)生者から見た死者

 3月2日に続いて、宗教について岡田斗司夫さんの動画をネタにした考察。

 昨日の日記では「あの世」を想定しない宗教について取り上げたが、本日からは再び「死後の世界」の話題に戻る。

 「死後の世界」を議論する際には、「器としての世界」と「どういう視点からその世界を見るのか」を分けて考える必要がある。
  • 「器としての世界」とは、何百万光年も離れた宇宙のどこかにある世界について考察するようなものであり、そこに宇宙人がいたとしても自分とのかかわりは一切ない。
  • 「どういう視点から」に関しては少なくとも2つの視点が考えられる。
    1. 他者が死んだ時に、生者の側からその死者と交流する視点:仏壇で遺影に語りかける、墓参りをするなど。
    2. 自分が死んでいくときに自身が体験する死後の世界:臨死体験などがあるがあくまで瀕死の状態から奇跡的に生き返った人の脳内での体験であり、本当に死んでしまったらもはや何も報告できない。

 今回は、上記のうち、他者が死んだ時に、生者の側からその死者と交流する視点について考察する。岡田斗司夫さんの、

『その時はある日突然やってきた』死に対して斗司夫が導き出した答え【岡田斗司夫 切り抜き サイコパス 余命 葬式 】

という動画の中では以下のように語られていた【省略・改変あり】。
僕死んだ人は自分と関係が無くなったので、死んだ人のことなんて考えないんですよ。但し思い出してしまうことがあります。例えば父親が亡くなった時は実はあんまりなんも感じなかった。母親が死んだ時もあんまりなんも感じなかったんですけども、それからやっぱり10年20年と思い出すんですね。で思い出した時は その自分が思い出したことと対話することになるんですよ。その対話っていうのは楽しいこともあれば、懐かしいこともあるし、しんどいこともあるし、つらいこともあるんですけども、それって生きてる人間と会っているのとそんなに変わらない、同じだと思うんですよね。
実は他人が生きているかどうかっていうのは、自分にとってはあんまり関係ないんじゃないかって僕は考えているんですけどね。毎日を一緒に過ごす人だったら別ですよ。毎日を一緒に過ごす人であったり毎日を一緒に過ごす犬であったり猫であったりだったらそれはそうは構えていられないと思うんですけども、年に1回とか2回とかしか会わない人とか、あとはもうテレビや雑誌でしか知らないような著名人なんて関係ないじゃないですか。
僕本当にこういうふうなことを言うのは何かと思うんですけども、黒澤明が死んだ時にいろんな人が騒いでいて、その時連載していた雑誌に「あの人が今さら死んだからといって何が悲しいんですか?って書いてもの凄い揉めたことがあるんですよね。黒澤明の寿命があと10年あったからといって僕らにどれくらいの喜びを与えてくれたかっていう期待値は殆どゼロに等しいよっていうような言い方はしないんですけど、ほぼそのような内容を書いたのでえらい怒られたんですけど、他人でそんなもんじゃないかなって思うんですよね。過剰に思い入れもしない。
 以上のご発言内容については私もほぼ同感だ。子どもの頃から人付き合いが嫌いなこともあって、他人との交流は最小限にとどめていた。妻や家族に先に死なれればパニックになりそうだが、それ以外の他者が亡くなったからといって特に悲しむことはないだろう。

 もちろんこれはここだけの話であって、知り合いの葬式があった時に「私はちっとも悲しくありません」などと不謹慎な発言をするわけではない。当然のことだが、葬式では故人や遺族の死生観を最優先すべきであり、自分が無宗教であってもそれぞれ宗派の様式に合わせて参列することになる。
 余談だが、こちらにお悔やみの言葉を申し上げる際の宗派別の注意事項が紹介されていた。本題から外れるが備忘録としてメモさせていただく【要約・改変あり】。
  • 仏教 「ご冥福をお祈りします」という言葉は、「死後の世界でさまようことなく、転生できるように」という意味の仏教用語であるため、他の宗教では使われない。
  • 神道 「安らかに眠られますよう」「御霊(みたま)のご平安をお祈り申し上げます」などがおすすめ。神道では故人は家の守り神になると考えられているため、「ご冥福をお祈りします」という言葉はふさわしくない。また「成仏」のような仏教用語も使えない。
  • キリスト教 「どうか安らかにお眠りください」という言葉を使うと良い。キリスト教における死とは、地上での罪を許され神のもとへ召され、祝福されるべきであると考えられているため。故人の死を悲しむ思いはあるものの、亡くなって悔やまれるといった言葉はキリスト教の教えにはそぐわないので注意。

 もとの話題に戻るが、人間以外の動物は、親や子やきょうだいが死んでも悲しんだりはしない。何らかの事故で母親が死んでしまった時、子どもはしばらくの間は親の周りをうろついたり親を動かそうとするが、全く動かない状態が続くと何事も無かったかのようにその場を立ち去る。人間の目からは、死んだ親の周りをうろつくのは親の死を悲しんでいるように見えるが、そうではなく、単に親が生きていた時に行っていた「親の後についていく」、「お乳や食べ物をねだる」といった諸行動が瞬時には消去されていなかったためと考えられる。その後何事も無かったかのように親から離れ自力でエサを探しにいこうとするのは、それが子どもが生き残るための最適な選択になるからである。

 ではなぜ多くの人間は、他者の死、とりわけ家族や知人の死を悲しむのだろうか? 私は、

人は、生物としての他者ではなく、概念化された他者と接しているから。

というように考えている。2024年9月10日の日記【その前後の連載記事を含む】に記したように、私たちが接している他者というは実物の他者ではなく、概念化された他者である。
私たちのあいだの人づきあいというのは、同一人物として物語化された相手とのお付き合いということになる。今ここにいる生身の人間同士としてではなく、日々の交流を通じて特徴づけられた概念的存在同士として語り合い、協力しあい、時には喧嘩をしたりしている。喧嘩をしてもすぐ仲直りできるのは、両者がお互いに「あの人はいろいろ欠点もあるが全体としていい人だ」と概念化されており交流を続けることがメリットをもたらしているからにほかならない。もちろん、すべてがそうなるわけではなく、時には「あの人は多少の長所はあるが全体としては私にとって悪い人だ。交流を続けてもデメリットのほうが大きい。」というように概念化され、絶交状態に陥ることもある。
 家族とか親しくしていた人が亡くなるというのは本来は生物的存在としての他者が消え去ったというだけのことであって、それ自体は客観的な変化に過ぎず悲しむことでもない。大雪の日に作った雪だるまが融けて無くなることと同様である。ではなぜ悲しむのか? これについては以下のように考えることができる。
  • その人が死ぬことで、
    • 私から働きかけても何も応答してくれない。
    • 私に何も働きかけてくれない。
    という変化が生じ、そのいっぽうで生物としての他者が消え去った後も「概念化された他者」が残り続けることで喪失感が生じるためと考えられる。
  • 知らない人が亡くなってもそれほど悲しまないのは、その人が「概念化された他者」になっていないからと考えられる。【全く知らない人が死んでも、遺族が気の毒だとか、無念な死であった、というような感情が生ずればその範囲で悲しむことはもちろんありうる。】


 上掲の動画で岡田斗司夫さんは

年に1回とか2回とかしか会わない人とか、あとはもうテレビや雑誌でしか知らないような著名人なんて関係ないじゃないですか。

と述べておられたが、じっさい、もう何十年も交流がない人は死んだ人と何も変わらない。また、私は芸能人・有名人には殆ど興味が無いので、私自身と同世代の芸能人のうちどなたが存命でどなたが亡くなっているのかは、全く把握できていない。偶然に訃報を知ってもそれゆえに気分が落ち込むことはない。

 次回に続く。