じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 3月4日、NHK-BSの『世界ふれあい街歩き』で、

中央アジアの庭園都市 アルマトイ〜カザフスタン〜

を放送していた【3月11日にも再放送あり】。

 アルマティ(アルマトイ)は、 というようにこれまで4回宿泊・観光したことがあり、懐かしく感じた。

 写真は、過去4回とも訪れたことのあるグリーンバザール【こちら参照】。売り場のおじさんもお馴染み。この売り場は入口に近く真っ先に「コンニチハ」と声をかけてくるため【もっとも以前と異なり、まずは「コンニチハ」ではなく「ニイハオ」と挨拶されることが多いような印象】、日本人観光客もここで買物をすることが多いようだ。

 放送で気づいたのは、取材に応じた人たちがほぼ100%ロシア語を喋っていたこと。2023年にマンギスタウを訪れた時も、現地スタッフは皆ロシア語で会話していた。

 なお放送では「アルマトイ」と呼んでいたが、私自身は「アルマティ」としている。ウィキペディアによれば、
日本語に広く定着している「アルマトイ」は町の名前のキリル文字綴りをロシア語の日本語転写の慣例によってカタカナに写した場合、「アルマトゥイ」となるはずのものを、さらに「トゥイ」を「トイ」に略したものである(ыを参照)。カザフ語の発音に近い「アルマトゥ」と書かれることもある。英語読みでアルマティとすることも。
となっており、「Ы」は「口を横に開き、舌を奥に引っ込めたまま「イ」と発音するような音になるので、「ты」はどう考えても「トイ」にはならない。また、大相撲の金峰山の力士プロフィールや館内放送でも「カザフスタン・アルマティ出身」と紹介されている。本人も「アルマトイ」ではなく「アルマティ」のほうに馴染んでいるのではないかと推察される。

 ということで、これを機会にぜひとも「アルマティ」の呼称を定着させたいと思っている。

2025年03月9日(日)




【連載】最近視聴したYouTube動画(19)岡田斗司夫さんの動画をもとに宗教について考察する(17)奇蹟と方便と御利益

 昨日に続いて、宗教について岡田斗司夫さんの動画をネタにした考察。

 昨日の日記をもって新興宗教の話題はとりあえず打ち切る予定であったが、その後いつものようにYouTubeで将棋や年金インタビューなどの動画を視聴しようとしたところ、ホームページのところに宗教関連の動画が多数リンクされていたので、本日はそのことについて補足させていただく。
 YouTubeの仕組みはよく分からないのだが、何かの話題に関する動画をいくつか視聴すると、AIだかクッキーだか何だか分からないが、その話題を取り上げた別の動画がイモヅル式に紹介されるような仕組みになっているようだ。じっさいに紹介されたのは、
  1. 【ゆっくり解説】絶対に近づくな!日本に存在するカルト宗教5選
  2. 【狂気】ヤバすぎる日本の危険なカルト宗教5選【ゆっくり解説】
  3. [絶対関わるな] 日本のカルト宗教 ランキングTOP15
といった動画であり、このほか新興宗教以外を含めた、

【日本の宗教】信者数ランキング TOP30+α【動くグラフ】

というのもあった。これらをザッと視聴してみたが、大部分は私が全く知らない教団ばかりであった。

 これらの宗教団体の中には、単に教祖の神通力や奇蹟を吹聴し、「お布施をすれば病気が治る」といった金集めを目論んだ詐欺集団も含まれているようだ。金集めが目的でないとしても、とにかく、この宗教を信じれば奇蹟が起こるとか、脱会すると祟りがあるといった脅迫をするような教団は要注意と言えるだろう。じっさい、そのような奇蹟を信じて医療行為を拒否した結果、患者が死亡したという事例はあるという。

 もっとも、伝統的な宗教であっても、一般民衆に教えを広めるための便宜的な手段として、教祖が奇蹟を起こしたというエピソードを語ることはよくあるらしい。
 ネットで検索したところ、キリスト教においてもイエスの奇跡というのがいろいろあり、中には死者を生き返らせたこともあるらしい。
 いっぽう仏教でも方便というのがあり、ウィキペディアでは、以下のように説明されている。

仏教において、衆生を教え導く巧みな手段や、真実の教法に誘い入れるために仮に設けた教えを意味する仏教用語。

 「奇蹟」と呼べるほど大げさではないが、合格祈願、病気平癒、交通安全、良縁、豊漁などさまざまな確率現象について、その実現確率が高まるようにお祈りするというのは大概の宗教では当たり前になっている。というか、そういう御利益が期待できない宗教は、よほどの悟りを開いた人【←「個人的な御利益を求めてはいけない、私人ではなく世界全体の幸福だけを祈るべきだ」と悟った人】以外ではなかなか信者を獲得できず、結果的に衰退してしまうものと思われる。

 確率現象が宗教の力で実現しやすくなるのかどうかは、実験的に比較をすれば簡単に分かることではある。例えば交通安全祈願をした人としなかった人で交通事故の発生率に違いがあるかないかを比較すれば祈願の有効性が検証できる。もっとも、こうした反宗教的な見解に対しては次のような反論がちゃんと用意されている。
  1. 奇蹟や御利益の有効性を疑ってはいけない。
  2. 奇蹟や御利益の有効性を試してはならない。
  3. あなたに奇蹟が起こらないのは信心が足りないからだ。
このように反論されてしまうと、信者はもはや一層信仰を深めるか、もしくは「祟り」を怖れつつもその教団から脱会するほかはない。

 このWeb日記にも以前書いたことがあるが、かつて私がお世話になっていた某宿泊施設の管理人さん(女性)が、バイクを運転中にトラックに追突して大怪我を負ったことがあった。この管理人さんは某新興宗教の熱心な信者だったが、事故を起こしてしまったことで周囲の人からは「宗教を熱心に信じても事故に遭うもんですなあ」などと冷やかされていた。しかし本人の解釈はこうだった。

信心が無ければ即死していたに違いない。信仰していたおかげて大怪我だけで済んだ

このように、何か不幸なことがあっても、「信心が足りないので起こってしまった」とか「信心のおかげで軽く済んだ」というように思い込んでいる限りは、永久にその宗教を疑うことはない。

 ま、かくいう私もほぼ毎年初詣に出かけており、

●どうか妻が私より長生きして、私の最期までちゃんと面倒をみてくれますように。よろしくよろしく。

などと自分勝手きわまりない祈願をしている。神道については岡田斗司夫さんの動画などをもとに別途取り上げさせていただく予定ではあるが、ま、神社に詣でてこの先1年の姿勢を整えるという儀式としては全く無意味ではないかもしれない。
  • 合格祈願をすることで試験当日の不安や緊張を和らげる。
  • 良縁の祈願をすることで、後に知り合った相手と自信をもって交際し、かつ相手の長所が見えやすくなる。
  • 平癒の祈願をすることで病気を抱えていても前向きに生きられるようになり、結果的にQOLやQODを高めることができる。
などの効果は期待できるだろう。但しこれらはあくまで個人の決意表明レベルの祈願であり、科学的根拠のない、ありそうもないことを実現させようと祈願に頼るのは無駄でもあり、結果的に挫折に追い込まれることになるように思う。

 次回に続く。