じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 半田山植物園では少なくとも3色のユキワリソウが咲いているが、このうち青紫色の花をデジカメで撮影するとなぜか赤紫色になってしまうことに気づいた。写真上は単にシャッターを押して撮影しただけの花。写真下は私の肉眼で見える色に補正したもの。
 もっとも個々人の色の見え方には個体差があり【こちらこちらの動画参照】、もしかすると青紫色に見えているのは私だけかもしれない。だんだん自信が無くなってきた。

2025年03月11日(火)




【連載】最近視聴したYouTube動画(19)岡田斗司夫さんの動画をもとに宗教について考察する(18)キリスト教(2)ドラえもんの喩え

 昨日に続いて、宗教について岡田斗司夫さんの動画をネタにした考察。今回からはキリスト教についての話題。引き続き、岡田さんの動画から関連するご発言を引用させていただく。まずは、

キリスト教徒は神の存在を信じているわけではない?【キリスト教】と【ユダヤ教】の違いをドラえもんに喩えて説明します《岡田斗司夫ゼミ・切り抜き》

を引用させていただく【要約・改変あり】。まず岡田さん流のキリスト教の定義は、
  1. 殆どのキリスト教徒は神は存在するっていうふうに頭から信じていない。神は存在しないかもしれないという不安があって、毎日毎日信じようとするのがキリスト教徒。だから懺悔というのがある。
  2. 懺悔というのは信仰心が薄らいでしまった、ゆえにこんなことをしてしまった、隣人に嘘をついてしまいました、なぜかというと神の教えというのが自分の中で揺らいだから。つまり神の存在を信じ切れてなかった、だから私は懺悔しますというのが懺悔の本質。
  3. 日本人がついつい感じてる考えてる「キリスト教徒っていうのは神様の存在を頭から信じてる馬鹿みたいに呑気な人」ではない。神様の存在という信じがたいものを毎日毎日努力して信じつづけようとする姿勢のことを信仰と言う。
  4. だから大事なのは神の存在を信じるという信仰という姿勢でそのための祈りがある。これが岡田斗司夫が語るキリスト教の定義。
となっていた。
 キリスト教の懺悔というものがホンマに信仰心の不足に対して行われるものなのか、それとも岡田さんが身近なキリスト者と接するなかで体験的に特徴づけたものなのか、動画だけでは何とも言えない。
 「懺悔」に関して私自身がたまに見かけるのは民家の壁や塀に貼られた「神への態度を悔い改めよ」といった看板であるが、率直なところこの種の看板を見ると「余計なお節介だ。お前だけ悔い改めてさっさと消えてしまえ!」と腹がたつばかりで、宣伝としては全く逆効果であるように思う。なおこの団体は布教活動をしているが宗教法人ではないという。
 ま、こうした奇怪な布教活動は別として、そもそも真っ当な生活をしている一般市民に対して、威丈高に「悔い改めよ」などと叫ぶのは失礼ではないかと思う。

 上掲の動画では続いて、ドラえもんに喩えて、キリスト教とユダヤ教の違いが説明された【要約・改変あり】。
  1. ドラえもんに出てくるジャイアンは恐怖であって俺たち全てを支配している。もうすぐジャイアンがやって来てリサイタルに連れて行ってしまうかもしれない。だから俺たちは正しく生きなければいけないというスネ夫の姿勢がユダヤ教。つまり「もうすぐジャイアンが来るぞ」っていうやつね。このジャイアンという「神」は本質は暴力であって怒りであって許してくれないものって捉えるのがユダヤ教。
  2. いっぽう、「ジャイアンというのは人間の心では推し量れない不可知な愛である」と仮定したらキリスト教になる。つまりジャイアンは私たちを見てらっしゃいます。ジャイアンは理不尽なことをするがそれは私たちが分からないだけで【リサイタルの】あの歌にも何か意味がある、というふうに言うとこれが新約聖書の世界。
  3. この世界というのは理不尽であって飢餓とか貧困とか日照りとかなんぼでもある。それに対する説明原理として、「そういうものがあるから私たちは身を律さなければいけない」という律法主義がユダヤ教、このスネ夫型がユダヤ教。
  4. そうじゃなくて、それらは全ては私たちに与えられてる試練であってその理由を問うこと自体がすごいけしからんことだ。ジャイアンがこの世の中にいらっしゃって人間はそれに対して敵わないんだ、だから人間は何か成し遂げられることができるんじゃないかとか、他の人より上に立つことができるんじゃないのか、というような驕りを捨てましょうっていうのが、そういう白いスネ夫がキリスト教みたいなもの。
 ユダヤ教とキリスト教の違いについては念のためCopilotにも尋ねてみたところ以下のような回答をいただいた。
キリスト教とユダヤ教は、どちらも一神教ですが、それぞれの教義にはいくつかの根本的な違いがあります。以下に主要な違いを示します。
  • ### 1. メシア観
    - **キリスト教**: イエス・キリストをメシア(救い主)と信じ、彼の生誕、死、復活を通じて人類の罪が贖われると考えます。
    - **ユダヤ教**: メシアはまだ現れていないと信じています。メシアの到来は未来の出来事として期待されています。
  • ### 2. 聖書
    - **キリスト教**: 聖書は旧約聖書と新約聖書から成り、新約聖書にイエス・キリストの教えや使徒の働きが記されています。
    - **ユダヤ教**: 聖典はタナハ(旧約聖書のヘブライ語版)であり、トーラー(モーセ五書)、ネビイーム(預言書)、ケトゥビーム(聖典)から成ります。
  • ### 3. 神の概念
    - **キリスト教**: 三位一体(父、子、聖霊)の神を信じます。
    - **ユダヤ教**: 単一の神(ヤハウェ)を信じ、三位一体の概念はありません。
  • ### 4. 儀式と習慣
    - **キリスト教**: 洗礼や聖餐式などの儀式が重要です。
    - **ユダヤ教**: バル・ミツバー、シャバット、ユダヤ教の祝祭などの儀式が重要です。
  • ### 5. 救済の観念
    - **キリスト教**: イエス・キリストへの信仰を通じて救済が得られると信じます。
    - **ユダヤ教**: 善行や戒律の遵守を通じて救済が得られると信じます。
これらは基本的な違いのいくつかですが、各宗教にはさらに多くの複雑な教義や習慣があります。興味深いテーマですね!どちらか特に深く知りたいことがあれば教えてください。
ということで岡田さんのジャイアンとスネ夫の喩えに相当するような回答には至らなかった。ちなみに、私自身の老後観である、

●なるようにしかならない。されどそれなりにやれることはやる。

というのはユダヤ教に近い考え方かもしれない【但し「それなりに」なので、無理をして朝から晩までの生活を律しているわけではない】。

 あと、上掲のジャイアンとスネ夫の喩えだが、土曜日の夕食時にたまに視るドラえもんのアニメでは、ジャイアンは理不尽に暴力をふるうガキ大将ではなく、こちらに記されているように、

同級生に暴行したり漫画・オモチャなどを奪ったりするなど、乱暴な性格の持ち主であり、作中ではのび太やその周囲の子供たちへのいじめが多い。その反面、他人想いで義理固く涙もろい一面もある。通常回では前者、劇場版では後者の性格が強調されることが多い。

という設定になっている。また原作が登場した頃に比べると、現代では暴力的なイジメに対して批判・監視の目が向けられるようになっており、かつ教育的な観点からは、暴力的なイジメに対してはドラえもんの道具を使って仕返しするのではなく、みんなの話し合いの中で解決していくということが推奨されていることから、この先も上述のような暴力・怒り・理不尽さを備えたジャイアン像が維持できるのかどうかは疑問に思うところがある【←静香ちゃんの女性像も同様】。


 次回に続く。