【連載】最近視聴したYouTube動画(22)岡田斗司夫さんの動画をもとに宗教について考察する(21)神道(1)
昨日に続いて、宗教について岡田斗司夫さんの動画をネタにした考察。本日からは神道に関する2本の動画について考察する。内容は2本ともほぼ同一。岡田さんの動画は「切り抜き」が多く、どれがオリジナルでどういう順で視たらよいのか分からないところがある。
動画の中で特に面白いと思った点を以下に抜き書きさせていただく【要約・改変あり】。まず前半部分では島田裕巳さんの本をネタに神道の特徴が論じられた。
- 島田裕巳『神道にはなぜ教えがないのか』の紹介。本の表紙には「神道には、開祖も、教義も、救済もない」と書かれた帯がついている。島田さんはオウムの見方をしたと批判されることがあるが、宗教学者なんだからどんな宗教も全くフラットに研究する。
- 世間の人は「カルト宗教イコール悪い宗教」だと言うが英語でカルトというのは創始者がまだ生きている宗教のこと【3月6日の日記参照】。
- 豊田有恒さんというSF作家は昔から自分のことを「シントイスト(神道家)だと言っている。クリスマスを祝って、ディズニーランドに言って、初詣にも行くがそれは日本人が無宗教だからだっていうのが日本人の考え方だが、そうではない。こういう多神教的な在り方は神道家でないとありえない。
- 神道とは何だろうかとずっと疑問であったが、まだ全然勉強していなかった時代に何となく感じてた神道の特徴っていうのは、「あまりにも古すぎて教義が忘れられている、形しか残っていない」。
- 宗教っていうのは、創立者が生きてたり直系の弟子が生きてる時代っていうのは、論理的整合性が凄い。それが成立して100年ぐらいの時代。100年を過ぎて1000年ぐらいまでは、その宗教の独自の文化や価値観というものを持っている。ところが1000年、2000年を過ぎた宗教っていうのは、神道のように行為や行動、形式しか残らなくなる、だから神道はインドにおけるヨガみたいなもの。ヨガって思想でも何でもないし仏教との結びつきも分からない。インドの宗教もあまりに古くなってしまうと、ヨガみたいなただ単に「体に良い体操」という部分が残ったり、カレーっていう料理だけが残って、何でカレーでなきゃいけないんだ、なんでヨガするんだっていうものが全くもう見えなくなっている、あれが僕は宗教の最終段階だと思っている。
- 島田さんの本にも書いてあるが、神道は教義もなければ誰が始めたのかも全く分からない。おまけに神社にある神殿っていうのは比較的、何百年前かに作られたもので、仏教の仏殿に対応して造られたものらしい。出雲大社にも元々神殿はなかった。島田さんの本によれば、吉野ヶ里遺跡の「神殿跡」も考古学者が当時は「宗教だから神殿があるはずだ」っていうことで適当な丸太の跡をこれは神殿に違いないと決めつけただけであり、宗教研究家から見たらこの時代には神殿は無かったという。
- 日本の神道の面白いところは中央が空虚であって特別な空間を作らない。例えば地鎮祭では竹の棒を四方に立ててその間に紐を引っ張るだけ。ここの場を神聖なものにすると決めた瞬間にみんながそれを神聖だと言って、終わったらそれを引っこ抜いて別に何でもなくなる。この全く何でもない場所を皆が神聖だと考えようと約束した瞬間に神聖になると抽象化された高度な宗教なんですよね。
このあと別の日に収録された動画が続いており、「宗教の本質?」が論じられた。
- 宗教っていうのは山の中にでっかい石があると、そのこと自体が奇蹟だし、村のみんながその石を見て「おぉ!」っていうこと自体が奇跡、だから拝む、これが宗教の始まり。宗教ってそれくらいのもの。
- 札幌の『テレビ父さん』の絵馬に何か祈って叶うはずがない。通天閣に『ビリケン様』があるが頭を触っても叶うはずがない。じゃあ、伊勢神宮に行ってお参りすることは叶うのか? それも同じ。
- 最近登場した商売目当ての新興パワースポットであろうと古典的なトレドの泉であろうとバチカンであろうと伊勢神宮であろうと、それらは等しく無意味といえば無意味。同じく、それを信じる人とかそれをすがりたい人がいるからこそ価値がある。
- だから俺らはすべてに関して「だから意味がないんだ」よっていう中二的なスタンスもできるんだけども、最近は【岡田さんは】逆。『テレビ父さん』の絵馬を買うと願いが叶うって言われたら騙されてみようかなって思う。騙されてみようかなじゃなくて信じてみようかな、じゃあ1つ買ってみようか、というふうに考えちゃう。
- 宗教の本質っていうのはセンターに本物のオカルトがあるとか本物の奇跡があるとか、そんなことじゃなくて、人がたくさん集まって、あぁ!とか凄い!と思ってるという思いが中心にあるからそこに奇跡が発生する。
- ディズニーランドが何で夢の場所なのかって言うと、皆が夢の場所だと思ってディズニーランドに行っているからこそ、夢を信じるっていう高度な遊びが発生する。パワースポットも同じであって、敢えて信じてみるほうが楽しいんじゃないの、だってそれ言い出したらこの世の中の宗教的なものって全て等しく無意味だとなっちゃう。
- 日本で八百万の神がいるっていうが、いい加減なんか知らない神がいるわけだ。八百万の神の神道の考え方って、あなたが凄いと思ったものをその場で神の1つとして数えても構わないっていう『神の発行許可証』を信者全員に開放しちゃった開放型の宗教だっていうところが神道の特殊性だと思う。
- カソリックを中心として、あらゆる宗教っていうのは、これが奇跡だとかこれが正当かどうかっていうのはすべて教団の中枢部が決める。そうじゃなくて信者側にそれを決める権利があって、それどころか創造とか新たな神の発生自体をファン【信者】が決めていいんですよっていうのが神道の新しいところ。
なお岡田さん自身は神社に参拝することがあるという。こちらの動画では以下のように語られている【要約・改変あり】。
人間っていうのは色んな欲望を抱いてしまいますよね。あと、色んな罪悪感っていうのも抱いてしまう。
例えばニュースとかでなんか悪いことがあったら、なんで世の中こうなんだ!とか、なぜ世界は平和にならないんだとか、なんで俺はこんなにダメなんだろうか、っていうふうに色んなものを抱えちゃうじゃないですか。
で、それを教会とか神社とか、別にお寺でもいいんですが、パンパンとやって【←神社以外ではパンパンとやらないほうがいいのでは?】世界平和になりますように、もっとまともな自分になりますように、仕事が見つかりますようにってやったら、実は自分の心の中の負担のかなりの分量が神様のほうにパッといくんですね。責任感がそちらの方へ行って、自分の中で罪悪感がリリースされる。もちろん必要最低限のものは残ってそれはその人が負担できるものなんですけども。特定の神様は信じてないんですけど、宗教施設があったら手を合わせるぐらいは僕はやります。それは自分の精神衛生上コスパによいから。
ここからは私の感想・考察を述べさせていただくが、神道が宗教の最終段階であるという主張には若干疑義がある。カルトが誕生し1000年、2000年と経って教義が忘れられたケースとは異なり、神道には最初から現在に至るまで教義は存在せず、創立者も居ない。要するに日本の豊かな自然のもとでアニミズムとして発生し、さらに預言やお祓いといった儀式を確立し、地域間の交流を通じて、島国という孤立した環境の中で統一化されていっただけではないかという気もする。
現代人にとって「罪悪感をリリース」という機能があることは確かだと思うが、人によってその程度は異なるだろう。毎朝規則的にお参りしている人は不規則な生活をしている人に比べるとはるかに健康的であり、結果的に健康増進、QOL向上に役立っていることは間違いない。
次回に続く。
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