じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
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津山線の線路脇にコンクリートブロックのようなもの【写真左】が大量に置かれており、枕木であることが分かった。そういえばウォーキングコース沿いで見かける津山線の線路はかなり年季の入った木製の枕木が使われている【写真右】。 今回、コンクリート製に交換ということになればおそらく私の余命よりは長い期間使われることになるだろうから、これが人生最後の枕木交換ということになりそうだ。 余談だが、この線路沿いの歩道では岡山理大の学生や理大附属の生徒さんをよく見かける。半田山植物園前に駅を新設すれば、植物園利用者のほか、岡山理大関係者の日々の通勤・通学にも便利になるはずだ。西川原・就実駅【正式駅名は西川原駅】があるのに、岡山理大駅はない。孝太郎さんの政治力をもってすれば駅の1つくらい簡単に作れると思うのだが。【←但し、岡大西門・理科大と岡山駅西口の間を運行している岡電バスの利用者が減るのも困るが】 |
【連載】英雄たちの選択(5)徳川光圀(2)『大日本史』の意義と意図せぬ結果/歴史はどこまで学べばよいか? 最近視聴したNHK-BS: ●英雄たちの選択 日本の運命を決めた「選択」に迫る! についてのメモと感想。本日は、昨日に続いて、 ●【2024年4月17日初回放送】黄門さまの野望!? 〜徳川光圀・国史編さんプロジェクト〜 について考察する。 昨日も述べたように、光圀は国史編さんプロジェクトに取り組んだが、そこで目ざしたのは「編年体」ではなく「紀伝体」による国史であった。放送で説明されたように、これらは以下のような違いがある。
放送によれば、光圀が国史編さんを始めた頃、幕府のほうでも林羅山による新たな国史の編纂を進めたいた。林羅山(1583-1657)が編年体でまとめていたのに対して、光圀は若い頃から愛読してきた『史記』の形式を採用した。紀伝体では皇帝や英雄など人物ごとに関連する出来事をまとめられる。中国の正史はこの形式で編纂されていたが日本には紀伝体の国史は無かった。光圀はこの紀伝体を採用することで、人の歴史を綴った国史を未来に残そうとした。鈴木暎一さん(茨城大学名誉教授)はこのことについて 編年体は極端に言えば表を膨らませるような形式なので、事実を淡々と並べていく。そういう意味では比較的楽である。しかし紀伝体を採ると人物の事績を生まれた時から亡くなるまで調べて書かなければならない。例えば後醍醐天皇は国民を導くための政治をきちんとやったのかどうかきちんと評価することになる。こういうことが後世の人々にとって1つの教訓になる。と述べておられた【要約・改変あり】。 1657年、江戸で明暦の大火が発生。幕府の書庫が焼失し、林羅山が国史編纂のために集めていた歴史書はことごとく失われてしまった。羅山はこれがショックで命を落としたとも言われている。 いっぽう光圀のほうは明暦の大火から1か月後、江戸の藩邸内に『史局』を設置した。
篠田さんによれば「紀伝体」の「紀」とは宇宙を回転させる軸となるような帝王、「伝」とはその周りに集まる人たち。なのでまずは軸となる帝王を定めなければならない。後世になってそれを決めるというのはとんでもないことであり光圀はそれに手を出したと評された。 国史編さんプロジェクト開始から20年経ったころ、資金不足が問題となってきた。光圀は金に糸目をつけず諸国から優秀な人材を集めたり、史料調査にお金をかけたりしたため、水戸藩の財政はひっ迫した。公称では35万石と言われているがじっさいの生産高は28万石くらいしかなかったと言われる。ということでこの番組の目玉である「英雄たちの選択」として、@「国史編纂事業を縮小する」、A「国史編纂事業を拡大する」が提示された。光圀はAを選択し、史書を編纂し、多くの文化事業を展開し、文化財の保護や保存に一生懸命心を傾けた。 こうして1697年には神武天皇から後小松天皇までの『本紀』が完成。光圀はその3年後の1700年、73歳で亡くなった。光圀の死後、藩全体を巻き込む一揆なども起こったが編纂は続けられ、1906年、全397巻からなる『大日本史』が完成した。 皮肉なことに、光圀の『大日本史』の底流にあった天皇を敬う思想は水戸学として独自の発展をとげ、幕末の尊皇攘夷の思想的原動力になり、ついには江戸幕府260年に終止符を打つという意図せぬ結果をもたらした。 『大日本史』の意義について篠田さんは以下のように評価しておられた【改変あり】。 論評がある程度加えられた通史があるのは非常に大事なことで、長い大局的な流れの中で自分たちはどのような段階にあるのかが検証できる。【『大日本史』によって】長期的な視座を日本の人たちは持った。ただ、前期の水戸学の人たちが意図しない方向にも解釈されたり、光圀は積極的に海外のことを知ろうとしていたのに、排外主義といった別の解釈も出てしまった。 また、スタジオゲストの大石学さん(歴史学者)は、 江戸幕府が【林羅山に命じて】目ざした歴史編纂は、東国に初めて首都が置かれ、ゼロから出発して神君・家康公によりこれだけ江戸が繁栄していることを称えるスタイルであったのに対して光圀の場合は、京都・奈良の時代からの歴史をずっと繋いできて自分たちを位置づけようとしていた。力による簒奪だけでない正統性を明らかにしようとしていたという点で、徳川幕府がやろうとしていたことを超える視座を『大日本史』は備えていた。幕末になって徳川がダメだとなった時、徳川幕府が素晴らしいという歴史観では持たなくなりそれが尊王論を強めた。と語っておられた【かなり改変あり】。 放送の終わりのところで磯田さんは、 光圀は歴史の判断から逃げていない。大野心をもって日本の通史を作らせった。歴史の判断は何かというと、結局は『物差し』。それはすべての人に当てはまる。あなたは世の中を見るときにどういう物差しで見ていますか? あなたは自分が生きる時にどういう物差しで生きていますか? いま考えたら水戸学で提示された物差しは悪用もされたし、そんなに全部は通用していない。歴史を見る時、あるいは世の中を見る時には、自分の物差しを大事に自覚しながら、どんな偏見を持っているかどんな価値判断をしちゃっているのかを大事にしていこうと思った。とまとめられた【改変あり】。 ここからは私の感想・考察を述べさせていただくが、私は中高時代から歴史(日本史・世界史)があまり好きではなかった。地理学も同程度に嫌いだったが、地理学のほうは少なくともそれを学んでいる時点において、世界にはどんな国があるのか、隣国との関係はどうか、この先暮らしはどうなっていくのだろうか、というように実用的な知識を獲得することができた。いっぽう歴史学のほうは、近代以降の歴史を学ぶことはそれなりに有用であるとは思うが、平安時代や室町時代に何があろうと今の自分の生活には全く関係がないような気がする。もちろん私自身も日本民族のDNAを引き継いでいるとは思うが、1万年前の祖先が縄文人であったか弥生人であったか、あるいはいろんな種族の混血であったかといったルーツは今の自分には 関係がない。江戸時代に武士であったか農民であったかということもどうでもいいことだ。 なので、世界史も含めて一定の範囲で編年体の歴史を学ぶことには実用的な価値があるとは思うが、それ以前の出来事については、興味をいだいた人だけが自発的に学べばよく、学校教育で義務的に学ばせたり入試科目に含めるべきではないと思う。じっさい、この際はっきり言っておくが、大学入学共通テストの日本史や世界史の問題など見ても、そんなこと知っていて何になるの?という気がしないでもない。 いっぽう、紀伝体で記された歴史書はそれなりに面白い。というか、この『英雄たちの選択』などはまさに紀伝体であり、毎回、英雄たちに突きつけられた二者択一の判断に焦点があてられているからこそ面白い。 もっとも、与えられた環境と地位のもとで個人がどう判断するか、それが成功するか失敗するかということには、バタフライエフェクトなど偶然的で些細な要因が影響を及ぼすこともあるし、情報が不足している部分を推量することで結果的に後付けの解釈になってしまっているような気もする。そもそも、関ヶ原で徳川方が勝ったとか、大政奉還後の政治体制がどうなったのか、などもちょっとしたバタフライエフェクトで全く異なる結果になっていた可能性がある。 成功談を学んで実践しても同じように成功するとは限らないし、しくじり体験を学んて気をつけても別のところで失敗してしまうことがあるように、他者の体験談というのはあてにならないものだ。また、赤穂浪士や新選組などのフィクションのほうが、史実をひたすらに追究するよりも人生に役に立つ可能性がある。 ということで、歴史好きの方には申し訳ないが、編年体の歴史は実用的に必要は範囲で学べばよく、また紀伝体の歴史は、創作であっても史実であってもとにかく自分の人生の参考になったり、楽しみや励ましや共感を与えてくれる範囲で学べばよいのではないか、というのが私の考え。 |